決められない人に腹が立っていた。


少し前までは。


職場の人や、知り合いや、


「それくらいのこと自分で考えれば?」


「人に頼らずに自分で決めたら良くない?」


イライラしながら思っていて、関わりたくないから距離を取るのに、人を変え状況を変え何故だかいつも私の前に現れる。


何故こんなに腹が立っていたのか今なら分かる。


母親を投影していたからだった。


母は絶対父に口答えしないタイプで、自分の意思では物事を決められない人だった。


いい方に振り切れば「頼りがいがある夫に頼ることが出来て幸せ」


悪い方に振り切れば「どんなにしょーもないことでもお伺いを立て理不尽なことも受け入れる」


そんな母を見てとても腹を立てていたし、多分、悲しかった。


依存的で自立していない、自分がない人のように見えていたし、そして我慢しているのだとも思っていた。


でも最近、心境の変化があった。


何があったというわけではないし、私も大人になった、多角的に物事を考えられるようになってきたのかな、ということなのだが、


別に人に頼ったっていいのだ。


時代的に男の人に寄りかからないと生きていけなかったかもしれない。

自分で決めることなんて出来ない環境だったのかもしれない。


ワンオペで子育して余裕がなくて、自分で考えることも自分で決めることにも疲れたのかもしれない。


好きな人と結婚して、頼ることが愛なんだ、それが本能なんだと言われたら、そうなのかもしれない。


全部、そうであっても良かったのだ。


母を投影した人達だって、きっと彼らの中で何かしらの事情や生きてきた価値観があって、人に寄りかかったり人に決めてもらうことで、何かしらのメリットがあったのだ。


私はそれを

「他者に寄りかかってはならない」

「依存してはならない」

「自分で考え決めなきゃならない」

「精神的に自立せねばならない」


たくさんのねばならないを持って断固拒否、拒絶していたから、私のその極端な信念を崩して統合する為に、現れていたのだな、と思う。


その人にはその人の人生が、母には母の人生があるのだ。


ただその上で、人に寄りかかる生き方、自分で決められない人生に巻き込まれるのは個人的にはやっぱり嫌。


だから「他者の生き方拒否拒絶」「私は絶対に嫌」から、


「ねばならない」ではなく「私はこうしたい」で生きられれば。


どっちだっていい。


どっちもある。


いいも悪いもない。


母の人生は母の人生。私の人生は私の人生。


やっとそういう視点になれた、ここ最近。


それを強く思わせることがあって、改めてそんなことを考えていた今日の寝太郎。


おやすみ寝太郎。夢の中でも、他者の生き方を尊重し、自分の生き方も尊重できる人になろう。