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かのんのお部屋

日々いろいろ思ったことを☆

先日、ブッダのことを調べていた時、あるブログに導かれた。そこに書かれていた文章は、インドの神秘思想家、ラジニーシの講話だった。悟りを得るために求道する男女についての違いを、語ったものだ。



覚醒に到る道は2つ、2つだけ、基本的には2つだけだ。1つは瞑想、もう1つは愛の道だ。ギヤナヨーガとバクティヨーガ、つまり、智慧の道と献身の道と呼んでも構わない。基本的には、道は2つしかない。愛には他者が必要だ、が、瞑想は独りでも出来る。

男性は瞑想を通じて到達することが出来る。だから、直接到ることが出来ると言われるのだ。男性は、独りになることが出来る。男性は、深いところでは孤独な存在だ。孤独は、男性には自然にやって来る。女性にとって独りでいることは難しい。極めて難しい、ほとんど不可能なこと。彼女の存在全体が、愛への深い衝動にかられている。そして、愛する為には相手がいる。相手がいなかったらどうやって愛せる?

相手がいなくても瞑想することは出来る・・そこには何も問題はない。女性、女性エネルギー・・これは愛を通して、瞑想的な状態に到達する。男性エネルギーは、瞑想を通して愛に到る。仏陀が偉大な愛の力となったのは、瞑想を通してだ。


(中略)

男性は、愛を通して神性を得ることは出来ない。そのエネルギーは、女性エネルギーとは全面的に異なる。男性はまず第1に、瞑想を成就しなければならない。そうなって初めて愛が起こって来る。そうなったら、もうそこに問題はない。まず彼は神性に達しなければならないのだ。そうなって初めて、その愛する者も神性を得る。


(中略)


女性には、これと正反対のことが起こる。女性は、その存在全体が相手に向かう衝動にかられている為に、瞑想することが出来ない。彼女は独りにはなれない。独りでいると、必ず惨めになる。だから、独りであることこそ至上の歓喜、独りであることこそエクスタシーなどと言っても、女性には理解出来ない。

ところが、この独りで在るということへの強調は、世界中到る所でなされて来た。というのも、男性の探究者が多すぎるからだ。仏陀、マハヴィーラ、イエス、モハメッド・・彼らは全て孤独の中に入って行った。そして、その孤独の内でのみ彼らは到達出来たのだ。彼らが、その独りという雰囲気を創り出していった。

女性は、独りになると必ず苦しむ。もし愛する人がいたら、たとえマインドの中だけのことであっても、彼女は幸福だ。もし誰かが愛し、誰かを愛せたら・・周りに愛があると、それは彼女を養う。愛は滋養分、それは微妙な食物だ。愛が周りにないと感じる時には、女性は飢え死にしそうな、息が詰まりそうな感じになる。その存在全体が縮んでしまう。だから女性は、独り在ることが喜びに満ちているなどとは、全く考えることなど出来ない。


ツインソウルの彼と出逢ったことにより、私は自分自身への回帰を促された。それは、このブログで再三書いていることだが、もう一つ彼と歩もうとしているものがあることに気がついた。それは、彼と向き合いだした当初から、直感で感じとっていた事だった。私たちは、二人で「悟り」を目指していると。ラジニーシが言うところの、「覚醒」である。


私が若い頃に師事した方は、その道に誘ってくれた先導者だったように思う。師から学んだのは神秘哲学。ただし、それはいわゆる座学であり、実技ではなかった。瞑想をするとかヨガをするとか、そういうことではなく、学んだ事を自らの生活の中で活かすという勉強の仕方だったように思う。


それは、7年という歳月をかけて続き、一通りの勉強が終了した頃、高齢だった師が病に倒れる。そこで勉強会は終了となったが、私にとっては、そこからが本当のスタートになった。


社会の中で「自立して生きる」という意味での実践が始まったのだ。何があっても、師は頼れない。まだまだ、自立できるような状態ではなかったが、独り立ちを余儀なくされた。それは、決して簡単な事ではなく、暗闇を進むかのようだった。道を外しそうになったこともあったが、必要なときに必ず「道」が指し示され、導いてくれる方が現れていた。ずっと見守ってもらえていたのだと思う。そうやって、色々な経験をし、学ぶ中、ツインソウルがあらわれた。


ツインソウルとの出逢いにより、「悟りの境地を得る」という事が身近に感じられるようになってきた。一人では難しいけれど、彼と一緒ならばできると確信したのである。


私は、彼との出逢いで「愛」の道に入った。慈しみ与える献身の道だ。


女性は、独りになると必ず苦しむ。もし愛する人がいたら、たとえマインドの中だけのことであっても、彼女は幸福だ。もし誰かが愛し、誰かを愛せたら・・周りに愛があると、それは彼女を養う


確かに、そうなのだ。


私はツインソウルの彼を愛することで、成長することができたし、苦しみに耐えられた。だが、愛する人が無かったならば、独りだったならばどうなっていただろう。それは、ツインソウルの彼と出逢う前の私自身をみれば一目瞭然かもしれない。苦しくて、辛くて、生きているのに生きていないかのような、虚無感が常に私を襲っていたのだから。


愛が周りにないと感じる時には、女性は飢え死にしそうな、息が詰まりそうな感じになる。その存在全体が縮んでしまう。だから女性は、独り在ることが喜びに満ちているなどとは、全く考えることなど出来ない。


だが、同じ道を彼は良しとはしなかった。彼は、私から逃げることになる。


男性エネルギーは、瞑想を通して愛に到る。仏陀が偉大な愛の力となったのは、瞑想を通してだ。


(中略)


男性は、愛を通して神性を得ることは出来ない。そのエネルギーは、女性エネルギーとは全面的に異なる。男性はまず第1に、瞑想を成就しなければならない。そうなって初めて愛が起こって来る。そうなったら、もうそこに問題はない。まず彼は神性に達しなければならないのだ。そうなって初めて、その愛する者も神性を得る。


ツンソウルの彼が私から逃げたのは、この為だったのだろうと思う。なのに、何も知らず私は逃げる彼を追いかけた。そうして、彼はもっと逃げた。彼は、独りになりたかったのである。ことを成す(神性を達する)ためには、私と同じ「愛の道」では無理だったのだ。


逃げ続ける彼を私はどうすることも出来なかった。同時に、逃げることが彼にとって必要な事もわかってきた。だから、私は彼を追いかけることを諦めた。彼を諦めたのではない、自分と同じ道を歩ませることを諦めたのだ。彼には彼のやり方がある、そこを信頼して手放したのである。


信頼して手放せたのは、確かな愛の存在を感じていたからにほかならない。それが感じられなければ、信頼して手放すことなどどうして出来たであろう。それは恐怖でしかない。その恐怖は束縛という形で彼を縛るであろう。


仏陀が自分の宮殿に戻った時、当然ながら彼の妻は非常に腹を立てていた。12年もの間、彼は顔を見せなかったのだ。ある晩ふっと、彼女に一言も声をかけずに姿を消してしまった。彼女が眠っている間に、臆病者のように彼は逃げ出して行ったのだ・・仏陀の妻ヤショダラは、知っていたら彼の出奔も認めていたことだろう。彼女は勇気ある女性だった。もし仏陀が頼んだら、彼女は許していたことだろう。それに関しては問題は全くなかったはずだ。

しかし、仏陀は頼みはしなかった。彼は何か困るようなことが起こるのを怖れた。彼女は泣いたりわめいたりし始めるかもしれない・・だが、彼の恐れは彼女に原因するものではなかった。彼自身の内部の奥深いどこかに恐怖があった。彼は、泣いているヤショダラを置いて去ることが、自分にとって難しいことになるのを怖れたのだった。恐怖というのは、常に自分自身の内にある。

彼にはとても残酷にはなれなかった。それなら、妻が眠っている間にこっそり抜け出した方がいい。彼はこうして逃げた・・それ以来、12年経って彼は戻って来た。ヤショダラはいろいろなことを訊いた。その中の1つはこれだった。

「言ってください。あなたが彼の地で成就したものが何であれ、それはここでは達成出来なかったのですか?私と一緒では?成就してしまった今なら、私にお話しくださってもいいでしょう?」 しかし、仏陀は沈黙したままだったという。

だが、私が代わって答えよう。仏陀はそこでは成就出来なかった。深い恋に落ちている男・・彼はヤショダラを深く愛していた。それは極めて親密な関係だった。ヤショダラとの間にどんな親密な関係もなかったら、彼女がごく普通のヒンドゥの妻で、愛による関係など全くなかったら、それだったら彼女と一緒に生活しながらでも、仏陀は道を達成することが出来ただろう。それだったら、そこに問題は全くなかったろう。相手はほんの外面にいる存在で、関わってはいない。関わっていないとしたら、相手はいないも同じ、ただその肉体が境界線の上を動いているだけだ。

しかし、仏陀は深く愛していた。男性にとって、恋している時には瞑想を成就することはとても難しい。これこそ問題だ・・非常に難しい。というのも、恋している時には、静かに坐っていても相手が頭の中に浮かんでいる。その存在全体が、相手の周りを廻り始める。それへの恐怖だった!だからこそ、仏陀は逃げ出したのだ。これまで、このことに言及した人はいないが、仏陀がその家から、妻から、子供から逃げ出したのは、彼が、彼らを本当に愛していたからだ!
(中略)


男性は、愛を通して神性を得ることは出来ない。そのエネルギーは、女性エネルギーとは全面的に異なる。男性はまず第1に、瞑想を成就しなければならない。そうなって初めて愛が起こって来る。そうなったら、もうそこに問題はない。まず彼は神性に達しなければならないのだ。そうなって初めて、その愛する者も神性を得る。

ブッダが妻のヤショダラを深く愛していたように、ツインソウルの彼も私を深く愛していると感じている。これは、妄想ではなく実感としてだ。


でも、だからこそ彼は逃げている。逃げずにはいられないのだ。


この事が理解できなかった当初、私の心は千々に乱れ、欝になるほど思い悩んだ。愛を感じ取ることはできなかったし、信じることもできなかった。「愛してもらえない」その恐怖で、私はがんじがらめになっていた。


だが、違うのだ。私は既に愛されていたのだ。深く深く愛されていたのだ。


それが、わかっただけで私の心がどれほど救われたか。愛を信じることが、どれだけ自分自身を強くするかわかったのである。考えてみれば、ツインソウル同士。愛されていないわけがない。愛を信じることができなかったのは、ひとえに自分自身が信じられなかったということなのである。


女性エネルギーは、愛す。そして、愛を通じて瞑想的な境地、サマディが花開く。悟りがやって来る・・が、その根の深くには愛があって、悟りはそこから生まれ開く花。男性エネルギーにとっては、悟りは根の中にあるもの、サマディはその根の中深くにある。瞑想は、その根の中にある。そして、そこから愛が花開く。愛はあくまでひとつの開花だ・・


男性の求め方と女性の求め方は違う、と私も自らの体験から思う。しかしながら、双方は同じ所へ向かっている。その行き着く先が、以下に語られている通りなのだと私は思う。


男性の瞑想が成長している時には、女性の愛もまた成長しなければならない。そうなって初めて、2人の歩調が合わせられ、より高い調和が生じて来て、ますます高まって行く。すると、ある瞬間がやって来る・・男性が全面的(トータル)に瞑想の内にある時、女性もまた全面的に愛の内にあるような瞬間・・その時にこそ、初めて完璧な出会いがある。

その時にこそ初めて、真の、至高のオーガズムが2人の間に在る!それは肉体的な、性的なオーガズムではなく、全面的なオーガズム・・2つの存在が出会い、互いの内に溶けて行く。と、その時には、恋人が扉となる、愛する者がドアとなる。そして2人共が、一体に到るのだ。


私が、ツインソウルの彼と向きあい始めたとき、真っ先に感じたのはこれなのだ。「オーガズム」「サマディ」と呼ばれる至高の状態へ至ることが、彼とならば確実にできると感じたのである。おそらく、これは明け渡しが出来るかどうか、お互いに全てを信頼して委ねる事ができるかどうか、が重要な鍵であろう。


いわゆる、「surrender」である。


心から明け渡しが出来れば、自然に至高の状態になれると思う。

私たちは、今まさにそこへ向かう最中なのであろう。


元がひとつの魂だからこそ、確実にそれは出来る。

私は、それを信じているのである。