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かのんのお部屋

日々いろいろ思ったことを☆

先日、前述の団体からの打診もあり、ある講座を受けにいった。基本的に団体を率いる指導者を対象にした講座だが、指導者以外も参加可能になっているようで、私はその枠での参加である。

 

 

この講座に参加した事で、自分に何が足りていないのかそのヒントをつかむ事が出来、それを実践していくための方法を見つける事が出来たので、これだけでも参加した甲斐は充分にあったと思う。

 

 

今回の講座へは、前記事で書かせていただいた【理想が高すぎる男性】も一緒だった。

 

 

この講座の最後に、全国的に名をはせている高校部活動の団体が演技を披露したのだが、私はこれに本気で涙した。感動の涙である。

 

 

彼らの演技の力強さ、迫力、厚み、どれをとっても、この団体が素晴らしいスキルをもっている事は誰でも感じ取れるはずだ。しかし、私が涙をしたのはそこではない。この団体に【愛】を感じたからだ。愛の波動の心地よさと力強さに魂が感化されたのである。

 

 

何より素晴らしいと思ったのが、ここの団体の指導者だった。

 

 

演技する側の生徒達ばかりでなく、観客側にも随所において細かい心配りを示している様が見て取れ、これは・・・と思った。この方の口から【愛】の一言が出た時、やはりなと思うに至る。さらには、部室にこの言葉が掲げてあると聞き、【愛】を理解してそれを部活という団体の中で実践されている方がいらっしゃる事に感激した。

 

 

帰宅した後、ネットにてここの部室の写真を見かける事になったのだが、【愛】という言葉とともに【自立】という言葉が掲げられていたのをみて、やはりわかって指導が行われていると確信。【愛】は優しいばかりではなく、相応の厳しさもある。この厳しさについていく覚悟がなければここに籍をおいてはいないだろう。生徒達の覚悟も半端ないものがある。

 

 

生徒達を愛をもって厳しく指導し、あたたかく見守りながら、自立心を育て上げる。これこそ、教育の本質であろうと思う。しかし、歪みが激しい現代において、これは簡単なことではない。それをやってのけている姿を目の当たりにし、この方の指導力の凄さを実感したのである。

 

 

演技が終わったあと、観客として一緒に見ていた【理想が高すぎる男性】にこの感動をありのままに話したのだが・・・彼は私が何を話しているのかわからないという感じだった。そもそも、【支配コントロール】でしか人間関係が構築できない彼に、【愛】の素晴らしさを語り、ともに分かち合おうとした事自体が間違っていたのかもしれない。

 

 

だが、なのである。

 

 

彼は私達の団体において指導者という立場。本来ならば、この事を一番わかっていなければならない立ち位置の人なのである。だが、私の話を聞いているのかいないのか、訳のわからないウンチクで言葉を濁し、この話題から逃げたのだった。

 

 

彼の態度を見て、指導者として根本的な事がわかっていないのだなと思うとともに、分からない自分も許せないのだろうなと感じていた。分からないなら分からないと言える勇気があれば良いのだが、プライドの高さがそれを邪魔しているのだろう。

 

 

今回、彼と一緒に行動してみて、一事が万事【それでいいのか?】という残念な選択をしようとするのが気になった。彼個人の事ならば、本人の問題なので何も思わなかったのだが、これが自分自身にふりかかってくるとそうはいかない。

 

 

彼の導きに身を委ねる事は出来ないと強く感じたので、意思表示はしっかりさせてもらったのだが、それでも自分の意見を100%押し通すつもりはなかった。私は、彼と話し合って選択をしていきたかったのである。

 

 

だが、私の意見に異を唱える事もなく、いとも簡単に従う様をみて意見が通って嬉しかった半面、とても残念に感じた。自分の意見に信念はないのか?と思ったからだ。こういうところが指導にもあらわれているので、彼の指導に口を出したくなる人(主に女性達)がいるのだろうなと思った。

 

 

彼の息子達もそれは気が付いているようで、おそらく、そこが彼らにとっては気に入らないのだと思う。父親を罵倒するほど尊敬していないのは、尊敬できる父親になって欲しいという気持ちの裏返しなのだろうなと思った。尊敬できる男性像を誤って捉えた結果が、息子達の俺様気質に繋がっているのかもしれない。

 

 

ちなみに、今回思うところがあって、私が思うスキル上での彼の息子達の問題点をそれとなく彼に聞いてみた。だが、「あれは〇〇学校スタイルなんだよ。癖だからしかたない」といわれ、この人には息子達を指導するという気概がないのだなと強く感じてしまった。

 

 

私が指摘したのは、息子達の姿勢であり、演技する上で土台となる基礎の部分である。今までたくさんの演技する人達を見てきたが、彼の息子達の姿勢が極端に悪い。これは、スキル云々の前に一番指導がなされなければならない部分だと私は思っているのだが、彼は指導する前にすでに諦めの姿勢。同じ趣味をもつ父親という立場であり、彼らが間違った姿勢をとっているとわかっているのならば、指導をして正しい方向に導いてあげるという姿勢でいてほしかった。

 

 

おそらく、例の高校の指導者ならば、一番初めに指摘して指導をするだろう。あれだけの演技を披露する事ができる団体ならば、相当厳しく指導されていると思う。指導者は毎回命懸けで事にのぞんでいるというから、その厳しさは推して知るべしだ。

 

 

どんな場面においても、【理想が高い男性】にはこの【厳しさ】が見えてこないのである。優しい人と捉える事ができるかもだが、それは厳しさに裏付けられたものではないため、流されやすく何とも頼りない。指導される立場の人間として、他人の意見にいとも簡単に流されて、自分を見ているようで見ていない彼に何度失望してきた事だろうか。

 

 

彼の息子達は、幼い頃からこうやって父親に失望し続けてきたのかもしれないなと思った。これは、父親から適切に導いてもらえなかったという事になる訳だ。ならば、息子達の問題行動は父親である彼の責任でもあるという事になる。

 

 

【理想が高い男性】は何事においても責任から逃れようとするのだが、愛を理解するためには相応の責任をとる覚悟がなければならない。このままでは、彼はどこまで行っても愛が理解できないし、この高校指導者の真の実力も理解できないであろう。自分が指導者として何が欠けているのかを理解できなければ、身の丈にあった指導をすることはできない訳で、これでは何度講座に通って偉い先生から指導を受けても、同じこと。却って、頭でっかちになっていくだけである。

 

 

 

私には全く魅力的に感じない彼のこの残念な様は、女性によっては母性本能をくすぐるものがあるかもしれないと思った。【まったく、私がついていないとダメなんだから!】とばかりに、甲斐甲斐しく面倒をみる女性の姿が容易に想像できる。これは支配コントロール下にある男女関係によくあるパターンの一つ。さらに言えば、息子を心配しすぎる母親の構図と同じともいえる。

 

 

(もしかすると、彼は母親によって自立の機会を奪われ続けてきたのかもしれない) 

 

ふと、そう思った。

 

 

最近の様々な親子を見ていて、子供に対して過干渉な親が多いなと感じている。これは、父親よりも母親が圧倒的に多く、これまた娘より息子に対してが多い。幼い頃は手がかかり、お母さんに甘えベッタリな男の子の存在は、母親にとっては可愛くてしかたがないものなのだろう。だから、様々に心配をし手を貸してあげたくなる気持ちもわからないではない。だが、同時に健全な親子関係のそれではないなと感じてもいる。心配され、手を貸され続けてきた子供は自立ができないからだ。自立ができないまま、老齢の母親に依存し続ける中年息子という親子も見かける事が多くなってきたが、正直、見ていて気持ちが良いものではない。健全な子育てのポイントは【心配よりも信頼を】なのである。

 

 

子供に過干渉になってしまう母親は夫との関係性に問題がある事が多いというから、彼の父親もまた問題がある人だった可能性がある。そう考えると、彼自身も親から適切に導いてもらえていなかったといえるだろう。

 

 

支配コントロールの関係を築いてしまうのは、自立ができていない証拠。自立出来ていなければ自分軸でものを考える事ができない。自分軸で考える事ができなければ【愛】は理解ができないであろう。だから、彼が【愛】を理解できないのはしかたがない事ともいえるのだなと思った。

 

 

愛のない物事や団体は、今後、存続が難しいと聞いた事がある。

となると、このままでは団体の存続が危ぶまれるということになるだろう。

 

 

守護霊が私にこの団体へ残る事を意図したのは、愛を伝える存在としての役割を果たす為であろうと思う。そしてまた、問題のある方々を正しく理解し【赦す】目的もあったものと思われる。



【許す】ではなく【赦す】。



これは、とりもなおさず私自身のため。
彼らの行為に対する私自身の憤りを手放すという意味である。



実はこれ、ツインソウルの彼で既に体験済みだった事を思い出す。

彼により、心をかき乱され続けていた当時の私は、コントロールできない自分の感情に振り回されていた。心の平安を求め、自分自身を客観的に見つめ直しながら、彼を正しく理解するよう努めていった結果、彼の心の奥底にある哀しみを知ることとなり、自然に彼を【赦す】事ができるようになっていたのだった。



彼で出来たのならば、今回も出来るはず。
そういう事なのだろうと思う。



なかなかに、深い学びをさせられている感覚があるが、これもまた魂の成長のため。
ありがたい導きに感謝をするのみである。