私の生家はある寺の檀家である。
檀家であるといっても、寺とは亡くなった私の実母を供養するための付き合いがある程度。
別段、熱心な仏教徒という訳ではない。
先日、母の法要で久しぶりにこの寺を訪れた時のこと。
馴染みの住職ではなく若い僧侶が供養にあたった。住職が代わったのかと思い聞いてみたらば、数年前から先代住職は別の寺の住職をしているという。先々代の住職も同じようにその別の寺の住職をしていたので、この寺では掛け持ちして管理をしている別の寺があるのだろう。
この若い僧侶とは二度目の対面であった。祖母が亡くなったおりに、葬儀で読経を上げてもらうため、実家が世話になっている寺にお願いしたのである。その時にいらした方だったのだが・・・一目会った瞬間に妙な違和感を覚えた。袈裟を身に着けているので僧侶とわかるが、どうにも僧侶らしく見えないのである。やりとりがとても事務的で、住職の代わりに来た方かなぁ?住職はお忙しいのかなぁ?と思っていた。第一印象が悪かったのも手伝ってか読経をあげてもらっても、まったくと言っていいほどありがたみを感じない。高いお布施を支払わされた感が強かったのである。
私に呪詛をかけてきた寺の住職も僧侶とは思えない方だったが、こちらも別の意味で僧侶らしくない。私の知っている僧侶とは違うのだ。何だか、読経をあげる事がやっつけ仕事に見えて仕方がなかった。
法要が終わったあと、山城の城主の関係でお世話になったもう一つの寺にお礼参りに向かった。この寺は、小さいながらも明るく開放的でとても居心地がよい。だからだろうか、御朱印を求めて参詣に訪れる方々がひっきりなしなのもうなずける。住職も奥裡さんも明るく鷹揚な方々だ。
檀家である寺とは宗派が違うのだが、それでも構わず悩みを相談できる。山城の城主の事を相談できたのもこの寺でこの方達だったからこそ。そもそも、ここへ参詣にあがったのも不思議な経緯からだった。私は、神社好きではあるが寺にはさほど興味がない。その私が自らの意思で寺へ参詣に上がるのはかなり珍しいこと。しかも、参詣に上がるまで、まったく知らなかった宗派も違う寺である。本来ならば縁が出来ないはずなのだが・・・おそらく、見えない世界の導きだったのだろう
さて。
お礼参りを済ませたあと、寺の応接室へ招かれてお二人と歓談をすることになった。
あらためて山城の城主の供養のお礼と経過報告をしたあと、住職に祖母の葬儀と先刻の法要で感じた事を話す流れになる。
「決してお布施を渡したくないわけではないのです。していただいた事にお礼をするのは当たり前ですから。ただ、やっつけ仕事をしているようなあの住職に渡したお布施がどうにも納得がいかないのです」
すると住職が静かにこうおっしゃった。
「我々も信者さんから気持ちよくお布施をしていただけるように精進しないといけないのです」
これを聞いて、なるほど!と思った。
お布施というものは、読経をして下さった事に「お礼」という形でわたすもの。感謝の気持ちをお金という形であらわすのがお布施の本質なのである。しかし、これは本質からズレていきやすい。寺も維持管理が必要であるし、僧侶にも生活がかかっている訳である。檀家さんたちからのお布施が収入源の彼らにとって、お布施をいくらもらうかは死活問題だ。
だから、僧侶側がお金を得るために読経をあげるという意識になってしまっているのだと、住職の言葉で感じた訳である。葬儀で読経をあげればいくら、法要で読経をあげればいくら、事務的に感じたのはこの為だと思った。
「これは別の寺の話なのですが、そこの檀家さんのお一人が墓終いをする相談をしたのですよ」
「あぁ、墓じまいは最近多くなっているみたいですね。実は、家の両親も考えています」
「この時、寺側からリダン料と墓の撤去費用で法外な値段を要求されたらしくてね」
「墓の撤去費用はわかりますが、リダン料?これは何ですか?」
「檀家を離れるという意味の離檀料です」
「えっ?檀家を離れるのにお金がかかるのですか?知らなかったです」
「いや、うちの寺ではそんな事はしないですよ。どうも「今まで先祖代々守りをしてやったのに」という意味の離檀料らしいのです」
これが、一般的ではないと聞いてほっとしたが、話を聞くと離檀料と墓の撤去費用で結構な金額を要求されている。結局、この檀家さんは支払ったようだが、この金額を用立てするのはどこの家でも出来る事ではないだろう。
「寺側にも事情があったのでしょうが、私もこれを聞いて驚きましたよ。この業界の値段というものは、あって無いようなものですからね。難しいですよね。」
以前、私の育ての母方の祖母が、檀家である寺から門前の修理に数万の寄進を要求された事があった。年金暮らしの祖母にそのお金を用立てる経済的な余裕などはなく、母に相談があった事がある。
「こういった場合、必ず支払わなければならないのでしょうか?」
「いや、そんな事はないですよ。経済的な余裕がないのに無理にとはいえません」
「でも、かなり強固に寄進を要求されたみたいなのですが…」
「総代の力が強いとそうなってしまうかもしれません。ただ、寺側から無理な寄進を要求することは本来ならばあってはならないと思います。もっとも、住職によって考え方に違いがありますから、一概には言えませんけどね」
この一連の住職との会話で、私がこの寺を好きな理由がわかった気がした。
どこまでも、住職の考え方が謙虚なのである。やらせて頂いているという姿勢がみえるのだ。山城の城主の供養を頼んだ時も、眉唾な話なのに嫌な顔ひとつせず真剣に話を聞いてくださった。まったく宗派の違うよそ者の私に、ここまでよくして下さった事が本当にありがたいと思っている。だから、自然と「お礼」がしたくなるし、また足を運びたいと思ってしまうのであろう。
冒頭の寺には「やってやっている」という意識が強く、だから感謝をして当然という雰囲気があった。居心地が悪く、とにかく早く帰りたいという気持ちになってしまうのはその為であったのだと私は思う。
先代、先々代が住職の時にはこんな事を感じた事がなかった事を考えると、寺がというより寺を預かる住職の意識の問題なのではないかと思わざるを得ない。私が件の僧侶に違和感を覚えてしまったのは、彼の宗教者としての姿勢を直感で感じ取っていたからなのだろう。
欲をかかず謙虚にまっとうに生きていくというのは、簡単な事のようで非常に難しい事だ。しかし、そういった姿勢を背中で示してこその宗教家なのではないだろうか。
金・金・金
お金が絡むと純粋な信仰心も曇ってしまう。
これは、仏教に限らない。ほかの宗教でも同じ事なのだと思う。
初めは良くてもおかしくなってしまうのは、お金が絡んでいることが多いのだ。
私に呪詛をかけてきた寺の住職も現在の状態(下級霊が関与)になってしまったのは「金に走った事」によると霊視を受けている。この寺の先代住職は純粋な信仰心から得度し開山をしたらしい。だが、現在の寺の状態を見る限り、開山当時の面影はほとんど残っていないような気がする。住職だけではなく、寺全体も一種独特な不気味さが漂う場所になってしまっているからだ。
今回のことに限らず【宗教】について色々と思うところがあるので、次回詳しく書こうと思う。