自分トフタリッキリデ暮ラスノダ
自分ノパンツハ自分デ洗ウノダ
自分ハ自分ヲ尊敬シテイルカラソレクライナンデモナイノダ
自分ガニコニコスレバ
自分モ嬉シクナッテニコニコスルノダ
自分ガ怒ルト自分ハコワクナルノデスグニ自分ト仲直リスルノダ
自分ハトッテモ傷ツキヤスイカラ
自分ハ自分ニ優シクスルノダ
自分ノ言ウコトサエキイテイレバ
自分ハ自分ヲ失ウコトハナイ
自分ハ自分ガ好キデ好キデタマラナイ
自分ノタメナラ生命モ惜シクナイ
ソレホド自分ハスバラシイノダ
「谷川俊太郎エトセテラ リミックス 」より引用
少し前、ネットを通じてこの詩をみかけた。これは、赤塚不二夫氏と谷川俊太郎氏のコラボ小作品の中の詩の一節。この詩を読んだとき「徹底的に自分を愛する」ということが、どういうことかよくわかる詩だと思った。
以前、私の友達がツインソウルの彼を評して「バカボンのパパ」と言っていたことがある。写真で見る彼の全体的な印象をそう評したのだが、言われて「なるほど!」と私は思った。イケメンなのに、言うこと為すこと「???」な時が多く、見かけと大きなギャップがあると私は感じていたのだが、なるほど「バカボンのパパ」は言い得て妙だった。
この友人は、この時「気づかない」とも言った。彼の本当の気持ち、本当の彼自身に「周りの誰も気づかない」と言いたかったらしいそれは、家族・友人・彼女にいたるまで、彼が親しくしていると思える人だれも、彼の本質がわかっていないということなのだそうだ。
以前、私は「天才バカボン」という漫画が大の苦手だった。奇想天外なストーリー展開といい、破天荒な登場人物といい、いったい何が言いたいのか、訴えたいのか皆目わからない。当時の私では、理解不能なバカバカしい漫画とどこか見下して見ていたのだと思う。これのどこが面白い?人気なのは何故?と。今なら、自分の理解の幅を大きく超えていただけだと思えるのだが、当時はそうは思えない私だった。
だが、なのだ。
ツインソウルの彼の存在に既成概念を見事に崩されたことから、私の理解の幅が大きくひろがった。そうして初めて、この漫画が実はとんでもなく深い作品なのだとわかってきた。私は、根本的に深い意味がある物事や話が大好きだ。気になれば、ひとつの物事を納得いくまでとことん追求するため、この漫画の奥深さに魅了されたのだった。
ツインソウルの彼はこのバカボンのパパを地でいくような所がある人。見かけだけの先入観で付き合うと、そのギャップに驚くことだろう。
私にとっては、理解の幅を大きく超える人だった。最初のうちは、変なことを言ったりやったりする人だと思っていた。それは、私だけでなく周りの人達が皆一様にそう思っているようだった。
だが、つきあいが深まるにつれ、私の中で彼への印象がどんどん変わってくる。彼は、変ではない、天才的なものの見方が出来る人なのだと気がついた。
とくに、物事を見極め、本質にせまるものの見方はすごいと思った。それは、普通にしていては、到底看破できない鋭さ。私はそういう彼の姿を、幾度となく見てきた。その度に、彼の洞察の深さに衝撃をうけてきた。
私の中では、すでに彼は尊敬に値する人物になっている。そんな「すごさ」を微塵も感じさせないのが、また彼のすごさ。
ふざけたように立ち回っているように見える彼である。ここだけ見ていれば、誰も彼が「天才的なすごさ」をもっているとは思わない。それが、まるで「バカボンのパパ」そのものに見えてしまったのだ。
そんな彼のありのままが、本当に心底愛おしいと思う。彼が彼であることが、私の悦びなのである。
冒頭の詩は、私が彼を思う感覚とまったく同じだと思った。自分を徹底的に愛する詩でもあるが、彼を徹底的に愛する詩でもあると。バカボンのパパである、彼を徹底的に愛する自分を見ているようだった。自分が彼で、彼が自分・・・不思議な感覚をこの詩によって、あらためて感じさせてもらったように思う。
私ハ彼ヲ愛スルヨウニ自分ヲ愛スルノダ。
モットモットモット、自分ヲ大事二スルノダ。