前回は、嫉妬の感情について私なりの解釈をしてみた。
私の思う、嫉妬をする人の問題点は記事に書いたとおりである。
ここで、もうひとつ思ったことがあるので書き添えておく。
それは、嫉妬をされる側の人のことについてだ。
嫉妬をされるというのは、それだけその人に素晴らしい点があるからだと思う。だが、なぜ嫉妬をされるのだろう?
私は、ツインソウルと出逢うまで、嫉妬する事にも嫉妬される事にも少々無頓着だった自分に気がついていなかった。
嫉妬という感情を持ったことはもちろんある。だが、その感情はもってはいけないもの・・・という考えが先にたち、自分を責める方向へいっていた。嫉妬されても、「なんで?」と疑問に思うものの、やはり「自分がいけないんだ」と自分を責める。
自分の感情を押し隠しながら生きてきたため、自分に我慢を強いた結果、その感情を心底味わってなかった自分がそこにいたのだ。自分自身で、これがどういう気持ちになるものなのか、わかっていなかった。だからこそ、嫉妬する人の気持ちも嫉妬される人の気持ちもどちらもよくわからなかったのだろう。
そう言う意味で無頓着だったのだ。
その感情に蓋をして、見ないようにしていたのだと思う。
だが、ツインソウルに出逢い、自分を肯定的に見られるようになってきた時に事態は変わった。
自分に自信がついたことにより、自分をどんどんアピールするようになる。
もちろん、それは自信をもって人前に出せる事だけなのだが、少しずつ「自分」というものを出していった。
そうしたら、今まで仲良しだと思っていた人達の何人かが、嫉妬をしだした。
「そんな人だとは思わなかった!」
今までは自分を抑えていたため、自信のない私しか知らなかったからであろう。
そのギャップに驚いたのだと思う。
嫉妬をした人達は、私の表面しかみていなかったのだ。
だから、仲良く出来ていただけだったと気がついたのだ。
自信のない私を「可哀想な人」と思うことで、優越感を抱いていたのかもしれない。
だが、自分と同じ土俵に上がってきた私を快く思えなかった。
それが、嫉妬になったのだと思う。これは、とてもショックな事だった。
何故ならば、ありのままの私で見ていてくれてたのではなかったんだ・・・とわかった瞬間でもあったからだ。
悲しかった。
私は、そんな嫉妬をする人達に辟易していた。
何故ならば、私は自分の魅力を自信をもって出しているだけに過ぎない。それの何が悪いの?と思っていたからだ。悪いのはそっちじゃないの?と。
「出る杭は打たれる」という諺がある。
頭角を現す人は、とかく人から憎まれたりねたまれたりすることのたとえ。また、出すぎた振る舞いをすると非難されて制裁を受けることのたとえ。
故事ことわざ辞典より引用
日本人は、この「出る杭は打たれる」という感覚が好きなように感じる。人と同じに足並みをそろえ、一般的な意見を述べ、当たらずさわらずお付き合いをするという感覚が。だから、一般的でない人を排除しよう、もしくは芽をつぶそうとする心理が働きやすいように思う。
でも、なのだ。
それでは、個性が活かせない生きづらい世界になってしまう。
出る杭は打たれるという言葉に疑問をもっている時、ならばいっそ「出過ぎた杭」になればいい、そうすれば、打つこと自体を諦めるから、という意見をいただいた。
なるほど・・・それは確かにそうだなぁと思いつつ、それでもどうなんだろう?と思ってしまった。本当に「出過ぎた杭」でいいのだろうか?と。
出過ぎた杭は、目立ってしまうがゆえに、様々な注目を浴びる。いい事も悪い事も容赦なくだ。出過ぎているからこその悩み苦しみというものもあるのではないか?
それは、幸せなんだろうか?と思った。
ここまで考えて、ふと思ったことがあった。
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という諺がある。
稲が実を熟すほど穂が垂れ下がるように、人間も学問や徳が深まるにつれ謙虚になり、小人物ほど尊大に振る舞うものだということ。
故事ことわざ辞典より引用
この諺は、私が師から教えをうけていた当時、口を酸っぱくして教え諭されたものだ。私の座右の銘でもあるのだが、ツインソウルの彼はこの諺の意味を「出る杭は打たれる」と思いこんでいたという記事を以前に書いた。
私が、このことを記事に書いたのは、この2つの諺の共通点に気がついたからだった。意味合いは全然ちがうのに、「ある一定ラインから出ていない」という意味で事の本質は同じだと気がついたときの私の驚きは相当なものだった。ツインソウルの視点の鋭さに舌をまいたと同時に、諺の本質が同じという事実にショックをうけた。
私は、この事をよく考えてみる必要があると思った。
これが事実ならば「ある一定ラインから出ていない」ということに意義があると思ったのだ。これは、私が思っているような消極的な意味合いではない、そこから出ないことが、実はとても大事なことではないかと。
世の中の人が、皆それぞれにある個性を「ありのまま」受け入れるには、「ある一定ラインから出ていない」状態が望ましいのではないかと思うのだ。そうすれば、皆と足並みを揃えることができる。足並みを揃えることは、相手を思いやることなのではないか。出過ぎた杭になって、そうでない人を見下していないか。そこをよく考える必要があると思った。
ただし、2つの諺には相違点がある。
「出る杭」は、他人から打たれる様であるのに対し、「実るほど」は、出過ぎた状態の自ら頭を下げている様であるということだ。
前者は、自分というものがない状態で淘汰される様なのに対し、後者は自分というものをもったまま、自ら頭を下げる様だ。
そして、この自ら頭を下げる様、これが謙虚な態度というものなのだろうと思った。これこそが、尊い姿勢だと。そう、日本人の美徳のひとつとされる謙虚さだ。
師の教えは、この謙虚な様を体得することを指していたのだろう。
「自分」をしっかりと持つことで、その個性を活かしつつ、謙虚であること。
これが、出過ぎた杭が目指す道なのではないかと思った。
そういう意味では、出過ぎたままでは、人間的に未熟なのだろうと思うのだ。
それは、無防備に己を世間に晒しているのと同じこと。その無防備さが故に、人は嫉妬をするのだろうと思ったのだ。
だから、私が自分に嫉妬してくる人に対し、怒るのはフェアとは言えない。相手の気持ちを考えれば、嫉妬する相手ばかりを責めることはできないのだ。私も、未熟な状態の自分を棚上げしたまま相手を見下している。これでは、嫉妬されてあたりまえと思った。
嫉妬をさせてしまう言動を自分がしていないか?持ち物や才能、外見の良さ、人脈等を自慢げに語っていないだろうか?見せびらかしていないだろうか?
こういったことに注意をする必要が、出過ぎた杭の人には必要なのかもしれない。
もっとも、注意するともなく自然に出来てしまうのが、実った稲の状態だ。稲はその重さで自然と頭をたれてくるのだ。
実った稲のように、自然に謙虚に振る舞える自分自身を目指していきたい。
それこそが、私の進む道なのだと思う。