告白体でこの種の物語を描くということにまず、谷崎潤一郎の女性への敬意と挑戦を感じた。それにしても昔の恋愛は死ぬだの死なないだの、命懸けだったのだなあ。最近の若者は命懸けで恋愛をしていないと、宮本輝が自分の作品の中で登場人物に嘆かせてたのを思い出した。

それにしてもこの小説の終わり方のなんて切ないことだろう。自分を置いて恋敵と共に死んでいった愛しい人、本当は自分も後を追いたい、でも、もしかしたらあの世でも邪険にされるかも知れない、そんなことを考えたら死ぬにも死ねない、でも、そういうふうに思ってみても憎いとか悔しいとかよりも恋しくて恋しくて…。死は、想いを引き立てるね。特に恋愛小説ではそれはとても効果的な仕掛けとなって読者の心を窮屈にさせる。ここらへんを尊重しつつ、しかし逆手にとって山田詠美は『無銭優雅』という小説を書いていた。恋愛小説っていいなあ、やっぱり。他人の恋愛事情を読むのなんかくだらないって人もいるけど、基本的に誰でもそのくだらなさに身をやつすことになるのだから、客観的にそのくだらなさを楽しむ余裕くらい持てばいいのに。だってある種の作家はそのくだらなさのために、作中で人まで殺しちゃうんだぜ。ま、それこそ他人事ですが。

『卍』というタイトルの意味が、解るようで解らん。これって何だっけ、仏教用語?うーん。でも、なんか、最後のほうにそれを暗示する場面、あるね、確かに。卍。そうか。人が重なり合ってるようにも見える。仏のあらわす紋様。それを見ることしか出来ない主人公。ああ、やっぱり切ない。
最近、森博嗣の作品ばかり呼んでいる。面白くて。で、この『夏のレプリカ』。とりあえず今、S&Mシリーズを一作目からここまで読んだのだけど、これが一番面白かった。この作品に出てくる簑沢杜萌という人物が、何だかものすごく、僕なのだ。

僕のような人間、というわけではなく、ある種の考え方、ある種の人生に対する態度。共感した、というわけではないけど、なんだかよく似てる、と思って居心地が悪い思いもした。

そういえば、共感。共感出来たか出来ないかで、その作品に対する評価を下す人がいるけど、僕はそんなことしない。もちろん、それも一つの作品に対する評価の指標ではあるけど、それだけを指標にするというのはあまりにも貧しい芸術への接し方だ。

蛇足だった。

この『夏のレプリカ』は、前作の『幻惑の死と使途』と対になっている。起こる事件そのものは全く別なのだけど、全く同時期に行われたという設定で、前作は奇数章だけ、『夏のレプリカ』は偶数章だけから成り立っている。このアイディアも面白い。我らの萌絵ちゃん(主人公)はもちろんどちらの事件にも首を突っ込んでいる。そして彼女は傷ついてばかりいる。好奇心は猫をも殺す。自業自得といえばそれまでだけど、彼女はある意味でそれを望んでいるのだとも考えられる。そういえば今作には、「(私を)殺しても、いいのよ」という台詞も出てくる。あまり言いたくも言われたくもない台詞だが、悲しいことにもしかしたらこの台詞が一番共感の出来る台詞かも知れない。

事件そのもの、提示される謎も面白い。推理ものなのだから当たり前なのだけど、一筋縄ではいかない。だけど、頭脳明晰な犀川先生や萌絵ちゃんが事件ついて考え、語っているのを見ていたら、こちらまで頭が良くなってくるような気になる。もちろん勘違いなのだけど、勘違いも度を越せば真実の光を放ち始めるだろう。それを信じてこれからも読み続けていきたい。



「若いときにば、ずいぶん嫌いなものが多かった。
何かを嫌いだ、と主張することは簡単で、気持ちが良い。
本当に嫌いだったわけではない。
嫌いだと思い込むことで、自分を確保できる、そんな幻想があった。
何かを嫌いになることは、軟弱な自分には都合が良い。
若者は皆、好きなものを求めるのと同じだけのエネルギィを使って、嫌いなものを一所懸命探している。そうすることで、自分が明確になると信じている。
それだけのことだ。
彼女は、もう子供ではない。
自分が好きだろうが、嫌いだろうが、そんなことは、ものごとの本質とは何も関係がない。意味がないのである。
今の彼女には、既に、好きなものも、嫌いなものもない。
それが本当のところだろう、と杜萌は思った。
好きも、嫌いも、一瞬の幻に過ぎない。
どちらでも、良いのだ。」
戦後間もない日本で実際に行われた、米国捕虜を使った人体実験についてのあれこれ。というか、人体実験に関わった人たちの心理のあれこれ。

遠藤周作は特に日本人の倫理観とその危うさ、落とし穴について考察したんだろうけど、日本人に限らず人間って何でもするよなーと思った。そこを深く掘り下げるのが作家の義務というか特権ではあるのだろうけど。

戸田という登場人物は、とても日本的だ。世間にばれなければ何をしてもいい、罰されなければそれはしたことにならない。そういうふうに考えることの良し悪しは置いといて、この考え方は日本人の倫理観の本質をついていると思う。一神教を持たない日本人の倫理の拠り所は、神の視線ではなく、他者の視線だからだ。

この小説は日本人を断罪する目的で書かれたわけではないと思う。人体実験。それは日本に限らずどこでも行われうる。アメリカは神と正義の名のもとに、原子爆弾投下という、人体実験を行った。日本の場合はどういうわけだったのか。この小説はそれを考察しているだけだ。


「(俺あ、なにもしない)勝呂はその声を懸命に消そうとする。(俺あ、なにもしない)だがこの説得も心の中で跳ねかえり、小さな渦をまき、消えていった。(成程、お前はなにもしなかったとさ。おばはんが死ぬ時も、今度もなにもしなかった。だがお前はいつも、そこにいたのじゃ。そこにいてなにもしなかったのじゃ)」