さくらももこ、宮田珠己、東海林さだお、椎名誠と、笑えるエッセイを書く人は多いが、個人的には僕はこの人の書くものに一番笑わせられる。上に書いた人たちも、基本的にふざけている。だが、真面目なことももちろん書くし(東海林さだおはそうでもないな)、作家としての一分みたいなものを時折感じる(東海林さだおはそうでもないな)。もちろんそれを否定はしない。それも含めて彼らの作品は面白い。

だがこの土屋のおっさんである。ずーっとふざけているのである。それは多分、この人が専業作家ではないということにも起因しているに違いない。この人は東京大学を出、今ではお茶の水女子大学の教授である。真面目な部分もきっとあるのだ。で、普段は出せないふざけた部分の全てをエッセイにどどんと炸裂させる。と、思う。

土屋氏は「そんなことないよ、いっつも私はふざけてるよ」というようなことを言葉を尽くして書きまくっている。いつも学生に馬鹿にされていることを正直に書くし、自分を卑下し、笑いをとる。例えばこんなことを書いている。「美人にかぎって性格が悪い。美人で性格がよい女にかぎって、男を見る目がない。美人で性格がよく、男を見る目がある女にかぎって、わたしを見る目がない。」

読者はこの、まるでイギリスの人気エッセイストのようなユーモアに心地よく騙される。しかし、これこそが土屋氏の企みと僕は思う。そう、この人はセルフプロデュースがものすごく上手いのだ。

…感想じゃないね、これ。まあ、いいから読んでくださいよ、すんげー笑えるから、としか言えません。

更新、久々ですねそういえば。さぼってました、すいません。本は読んでるのだけどね。



「わたしが生まれたのは、パリから車で南下し、リヨンを過ぎてさらに南、地中海沿岸のマルセイユから約九千キロ東、岡山県玉野市の宇野という港町である。」
何だか終わりに近付くにつれ、不気味さが増し、あれもしかしたらこれ、とんでもないオチが待っておるのではないかと思わせといて、すっと終わる。前回の記事でバランス感覚ということを書いたけど、この人のバランス感覚も半端ないっす。

解りやすい小説ではないと思う。例えば、いま、日本で売れている宮部みゆきや東野圭吾、湊かなえ、伊坂幸太郎なんかを好きな人にとっては(もちろん彼らの作品を否定するつもりはないですよ)、面白さの芯をなかなか見つけられない作品かも知れない。

ただ、その、解らなさという尊さ。僕はこの作品を読んでそう思った。解りあえないことは不幸ではなく、ただの自然。そしてその自然は何にも侵されることなく時間の流れと共に膨らみ、萎み、収束する。解りあうとか解りあえないとか、そんなもの大したことじゃないのだ。この小説の語り手は、もう一人の主人公、佐知子と、決して解りあうことは出来なかった。それでも彼女は思う。何十年も前に、皆でケーブルカーに乗った思い出、あれはなんてことのない思い出だけれども、でも、確かに幸せな思い出だと。

そしてその幸せは、誰とも共有出来ない。

だからって悲観することはない。主人公は娘とすら理解しあえない。それでも彼女らは何となくお互いのことを思いやって、尊重しあう。にっこりと笑って、手を振り別れられる。

誰だって、誰かと解りあいたい。その欲望を持つたび、しかし人は、それがどんなに困難なことかに気づく。それでも挑戦し続けることと、まあこんなとこだろうと折り合いをつけることと、どちらがより良いかとは決められない。誰もが自分の正しさをまっとうするしかないのだ。そこから生まれいずる全ての衝突、悲劇、悲しみ、言い訳、非難、それすら、しかし、尊い。

そんなことを思った。



「『よかったわ、あなたが見つかって』わたしはすこし息を弾ませていた。『お宅のお嬢さん、いま見かけたら喧嘩してたわよ。あっちのどぶのほうで』
『喧嘩をしてた?』
『二人の子と。一人は男の子だったわ。ちょっとすごい喧嘩だったみたい』
『そう』佐知子が歩きだしたので、わたしも並んで歩きだした。
『おどかすつもりはないけれど、かなりすごい喧嘩みたいだったわよ。それもお嬢さん、何だか頬に怪我をしてたようだし』
『そう』
『あっちよ。原っぱの外れのほうなの』
『まだ喧嘩してるかしら?』彼女はすたすたと坂を登っていく。
『もうすんだでしょうね。お嬢さんは逃げていったから』
佐知子はわたしの顔を見て薄笑いをうかべた。『あなた、あまり子供の喧嘩を見たことないの?』
『まあ、子供なら喧嘩くらいするでしょうね。でも、知らせたほうがいいと思ったのよ。それに、学校へ行った様子もないし。ほかの子たちはそのまま学校のほうへ行ったのよ。でもお嬢さんは、また川のほうへ行っちゃったの』
佐知子は返事もせずに坂を登りつづけていた。
『ほんとうは、とうにお話ししたかったのよ』とわたしはつづけた。『このごろ、しじゅうお嬢さんを見かけるものだから。もしかすると、ずる休みでもしているといけないと思って』
道は、登り切ったところで二手に分かれる。佐知子が立ちどまると、わたしたちは向かい合った。
『そんなに心配してくださって、ほんとうにありがたいわ、悦子さんってほんとうに親切なのね。きっと立派なお母さんになるわ』
それまでのわたしは--停留所にいた女たちのように--佐知子は三十かそこらだろうと思っていた。しかし、それは若々しい体つきに騙されていたのかもしれない。顔はもっと老けていた。彼女はかすかにおかしそうな表情をうかべてわたしをじっと見たが、その顔を見ていると、どういうわけかこっちもぎこちなく笑ってしまった。
『わざわざ追いかけてきてくださったりして。ごめんなさいね』と彼女は言った。『でもね、わたし、いまちょっと忙しいの。長崎まで行かなくちゃならないのよ』
『そう?ただお知らせしたほうがいいと思っただけよ』
彼女はまだおかしそうな顔でちょっとわたしを見ていたが、やがて『ありがとうございました。じゃ、失礼するわね。町まで行かなくちゃならないんで』と言うと、かるく頭をさげて停留所のほうへ行く道を歩きだした。
『お嬢さんが顔に怪我をしていたからなのよ』わたしはすこし声をはりあげた。『それに川にもずいぶん危ないところがあるわ。だから教えてあげたほうがいいと思って』
彼女はもう一度ふりかえってわたしを見た。『悦子さん、もしお暇だったら、今日昼のあいだだけあの娘を見てやっていただけないかしら。わたし、夕方には帰ってくるの。あなたにならお手数はかけないと思うんだけど』
『かまわないわよ、そうおっしゃるんなら。お嬢さんはまだ小さいから、一日中一人で放っとくのは無理じゃないかしらね』
『どうもありがとう』佐知子はくりかえすと、また薄笑いをうかべた。『ほんとうに、あなたは立派なお母さんになると思うわ』」
おせいさんのエッセイ集。この人のは、小説も好きだけど、エッセイも大好き。文章のバランスがすごく好きなんですよね。例えば、ほんものの恋、という章の書き出し。

「立秋の声をきくと、ちょっとぐらいは、きびしい暑さもゆるんだ気がする。しかし昼間の炎暑のほてりはなお去りやらず、夕方になっても気疎い(けうとい)熱気がたちこめて窓も開けられない。」

なんていうか、ものすごく美しい文章じゃないですか?ただの日常の風景、というか、あっちーなー、もう、というようなことだけを肩肘はらず、上品で丁寧な日本語に押し込めている。かと思ったら、次におせいさんはこう書くんですね。

「こんな夕方はクーラーを利かせて、冷たい日本酒にスダチを絞り入れたのを飲むにかぎる。」

このバランス感覚、ユーモア、好きだなあ。この人の文章は、ひそかに僕のお手本だったりする。この本とは関係ないけど、『ブス愚痴録』という短編集は最高に面白い文章満載でおすすめだ。いま、ちょっと手もとにないから引用出来ないんですけどね。いや、探しゃあるんだろうけど。

で、この本。この本にはおせいさんが提言する、恋愛や結婚生活に対するいくつものアフォリズムに溢れている。といっても、もちろん堅苦しい本ではない。むしろ、笑える本だ。こんな文章があった。笑ってしまいましたよ、思わず。

「人生でいちばんいい言葉は、
〈ほな〉
である。


この〈ホナ〉は大阪弁なので少し説明が要る。接続詞で〈ほんなら〉--それなら、ということ。じゃあネ、などという語感か。〈それなら〉が〈そんなら〉になり、そこから〈ほんなら〉になり、ついに極端に短縮して〈ほな〉になった。デパートの地下階をデパチカというが如し。
そんならさいなら、の意味も込め、その奥に〈では運命のままにお別れいたしますが、これは私の本意ではございません。しかし、こと、ここに立ち至った以上、悪あがきして運命の流れをむりにせきとめても詮ないこと、昔のたのしい思い出を胸に秘め、一生、忘れはしますまい。あなたさまも新しい未来に希望を持たれ、さらなる面白い人生に出会われますよう、お祈りします。たのしい時間(とき)を沢山(ぎょうさん)もろうてありがとさん……〉
これが煮つまって出てくるのが、
〈ほな〉
である。」

笑えるでしょう。そこはかとなく滋味のある、せつなくもほかほかとする笑いである。こういうのを書くと、おせいさんは日本一である。と思う。

といっても、まだ僕は二十代。自分とはそれと知らず、まだ鼻息が荒いところもあるだろう。よって、例えば「自分の家族や友人、自分の手に合うほどの仕事を愛し、大切にする。目立たず、人にまぎれ、世にまみれよ」なんて書かれても、少し反発する心もある。ぬー、と思って、でも、まあ、最後にはおせいさんふうに、こう思うのである。

ふうん、そんなもんかいな。