パレスチナ問題についてイスラム教圏ではこう伝えられている | 知りたがりな日本人のブログ@インドネシア

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日本語では検索できないインドネシア国内の話題を、雑談に使えるレベルで解説。

中東情勢パレスチナ問題が緊迫する度に出てくるのが、旧約聖書や古代歴史の解説。結構頑張って読んだのに、結局のところやっぱり宗教の問題だから難しい、という結論でなんだかもやもやしたことはないだろうか。

 

イスラム教圏側からだったら、どう伝えられているか?以外にもそれは、聖典の引用などではなく、とてもシンプルでわかりやすいものだった。中東問題を語るときの基本、それはオスマン帝国が支配していた何百年間もの間、”ユダヤ教徒とアラブ人は、争うことなく共存していた”ということだ。


”トルコは何不自由のないところだ。ここでは自分のぶどうの木を持つことができる。明るい色の服を着ていても殴られたりしない。キリスト教徒の下で暮らすよりずっといい。” これは、宗教戦争のヨーロッパから聖地エルサレムに移住してきたユダヤ教のラビが、ドイツの同胞に宛てた手紙(Letter of Rabbi Isaac Zarfati)。

 

このラビの手紙に励まされて、その後何世紀にも渡って、ユダヤ人やキリスト教徒が、聖地エルサレムの近辺に移り住んできたが、イスラム教徒から阻まれるようなこともなく、アラブ人とユダヤ人、キリスト教徒は共存していた。”他宗教を迫害しない寛容性”こそが本来のイスラムの教えだと説明される。

 

”しかし、シオニストは共存を拒否した”ということの意味はどういうことだろう。何万人もの移民が一度に押し寄せれば様々な問題が発生することは、現代の私たちにも身近な話題だが、やはり同じような問題が発生していたのだろうか?カタールのテレビ局アルジーラが製作したドキュメンタリーがそれを解説している。

 

シオニズム運動を支持するイギリスの軍隊がパレスチナを支配すると、元々パレスチナに住んでいた人々は厳しく取締られた。反対活動を行えば、投獄、追放、殺害、パレスチナ地域の指導者であったイスラエル市長なども、国外に追放されてしまった。結果、パレスチナは指導者を失った。

 

どんどん送り込まれる移民、イギリスは制限をかけたが守られなかった。移民してきた若者には特別訓練が施され、シオニストの軍隊ができた。これがまたアグレッシブな部隊で、イギリス軍と度々衝突したり、また、パレスチナ人の村々をスパイし調査したうえで、爆弾を仕掛け村民を殺害したり追い出したり、建国前から領域を拡大する作戦を展開していた。イスラエル建国が宣言されイギリス軍が撤退すると、ハイファやヤッファなど沿岸沿いの大都市が標的となった。

 

パレスチナ沿岸の都市は、スエズ運河にも近い昔からの交通の要所、オスマントルコ末期には鉄道が引かれ、その当時の有望な投資先だったという。ロシアやドイツから亡命してきた教授や文化人らによって教育、文化の中心でもあった。

 

抵抗する術を持たない人々は、ヨルダンやレバノン、南はガザ地区に逃げ込んだということだ。その当時は誰もが一時的に避難するだけだと思っていたが、70年以上経っても帰れるあてはない…というドキュメンタリー、豊富な当時の映像や生存者の証言、時系列を追っての説明からなる重厚な内容だった。
 

アラブ人が異民族に寛容であったということは歴史的にも知られているが、そのアラブ人がイスラエルを敵視するのは、本当に宗教的な理由だろうか。イスラエル軍がパレスチナで行った作戦が(その時のショックが、”ジハード”で集結する過激派を生んだともいわれている)拡大されるのを恐れるから敵視するのでは、と思った。

 

こういう時によく引用される聖書の預言で重要なのは、歴史は繰り返すからそうなる前に悔い改めよ、という警告であるはずだが、これを”預言にあるから戦争は避けられない”という論調にすり替えて、戦争を正当化しようとする影響力には気をつけなければならない。

 

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