ざっと知っとくインドネシア独立の歴史と建国の父 ー白人迫害とロームシャの親方ー | 知りたがりな日本人のブログ@インドネシア

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日本語では検索できないインドネシア国内の話題を、雑談に使えるレベルで解説。

スエズ運河が開通してから、ヨーロッパからアジアへの船旅はより身近なものとなっていたようだ。オランダ語らしい船名のついた大型船から続々と降りてくるたくさんの西欧人たち。男性は帽子に白いスーツ、奥様方は、ワンピースに白手袋をつけた奥様方たち、といった正装で、お互いのビジネスの話などを交わし談笑している。植民地政府に赴任になった公務員や、輸出業者、農場や鉱山の経営か。すでに社交界の雰囲気だ。

 

船を降りたオランダ人は、オランダ人専用の邸宅街でオランダ人だけのコミュニティーで暮らす。子供にはオランダ語の学校、大人たちには社交クラブがあり、テニス、ゴルフ、遊戯施設やプールも完備されている。邸宅内の中庭で、お誕生会をしている子供たちの映像が可愛い。女の子は、ふわふわのワンピースに大きなリボン、男の子は半ズボンにサスペンダーといった服装。その頃のオランダ人の子供たちがとても大切に育てられていたのが伺われる。

 

 

そんなオランダ人たちのインドネシアでの生活を180度変えてしまったのが、日本軍による占領だ。植民地政府高官と軍の一部は、事前にオーストラリアに亡命していたが、大部分の民間人は残っていた。オランダ軍が撤退したことで、白人とみれば現地人から襲撃を受ける事件も発生しており、全ての西洋人はキャンプに収容されることになる。(オランダ人以外の西洋人もいたが、ドイツとイタリア国籍者は同盟国であるということからキャンプには入れられなかった)

 

アジア人優先の方針により、日本軍は行政及び民間のオランダ人管理職者を全て排除し、現地人を昇格させて配下に置いた。そして、オランダ人の成人男性は全て強制労働員(ロームシャ)として、男性専用のキャンプに集められ、その妻や子供たちはまた別のキャンプで共同生活を送ることになる。

 

干された洗濯ものでいっぱいの狭く雑多な環境の中で、ひしめき合って暮らす母親と子供たち。上半身裸で駆け回る子供たち。奥様方はタンクトップにショートパンツ姿で、地面に座り込んで食事の用意をしたり、水の供給の行列に並んだり、バケツで汲み上げるその水も大丈夫なのかどうかなどとは言っていられない。生きるために戦う毎日。


胸が痛いのは、別のキャンプに連れていかれた年頃の娘たちのこと。従軍慰安婦として働かせられ、戦地にも送られているという。

(後に、インドネシアが独立宣言を行った後、オランダの軍隊が再び戻ってくるが、その際、真っ先にキャンプに囚われていた西洋人の救出作戦が実行された。)

*スマトラ島で収容所に入れられた白人女性を主人公にした映画Paradise roadというのがある(日本では未公開、変な日本語と残酷シーン多し)

 

オランダ人を追い出した後の建物や住居は、日本人軍人のオフィスまたは宿泊施設、武器置き場として利用される。チリウン川のほとり、白い柱の並ぶローマ建築風の歴史的建物(1830年に建てられた)オランダ王国軍司令官の邸宅として使用されていた建物には、現地知識人20人で構成される中央参議院(アドバイザーとして日本軍政に協力する機関)が設置された。

 

その委員長に任命されたのがスカルノ氏、副委員長がハッタ氏。流刑の地から日本軍によって呼び寄せられたメンバーだった。彼らはかつての独立運動で有名になった若き活動家たちだが、すでに40代になっていた。

 

中央参議院会議は1943年~1945年の間に8回開催され、コメの強制供出や不作を防ぐ対策、郷土防衛義勇軍、ロームシャ、隣組の設置、竹槍訓練など、日本を勝利させるために何をしたらよいか具体策について確認しているが、敗戦がみえてきた7,8回目の開催においては、独立宣言や憲法の草案の準備など、具体的な独立の準備について話合っている。

 

”日本軍に協力して、見返りに独立を認めてもらうよう交渉すること”それこそがスカルノ氏の目的だった。しかし、最初は解放者として歓迎されていた日本軍が、実はオランダ人よりも乱暴で、搾取や暴力、強制や締め付けが厳しいということがわかってくると、”スカルノは売国奴に成り下がった” ”ロームシャの親方かよ”と不満が向けられ、民衆だけでなく独立運動の同志たちからも批難されるようになる。 

 

スカルノ氏が、当時日本軍の広告塔として活躍していた時の映像が残っている。ロームシャと同じ半ズボンに麦わら帽子姿で行進し、鍬をふるい、一緒に地べたに座って弁当を食べ ”君たちがここで流す汗こそが、敵国を倒す毒となる、我々が倒す敵は?英国、アメリカ、オランダ、そうだ、日本軍に協力しよう”という得意の論調で、ロームシャとして働くことを力強く推奨している。

 

 

後日談によると、撮影時はまだ荒地だった鉄道敷設工事現場では、工事が進むにつれて”死の現場”といわれるほど、恐ろしいほど多くの人が飢餓と厳しい労働で死んだ。そしてこの後ビルマに送られたロームシャたちは、やはり飢餓と厳しい強制労働、加えて(おそらく無理な作戦による)病気や生き埋めの犠牲となって、99%が帰らぬ人となった。

 

これらの件について、スカルノ氏は後にインタビュー形式の自伝の中で、”ひどいことになるとわかっていたのに、誘導して送り出したのはこのわたしだ。そうだこのわたしだ”と、激しい言葉で自責の念を打ち明けている。

 

オランダ人がロームシャとして強制的に労働させられているのをみてほくそ笑んでいた民衆には、何故、アジアの兄弟である日本が、自分たちにまでこんなひどい扱いをするのか全く訳が分からなかっただろう。しかし、日本軍が太平洋で繰り広げた数々の作戦の主要な物資調達地がインドネシアであったことを考えれば、実に辻褄の合う話だ。

 

兵士が大量に送り込まれる作戦があれば、そのためにコメの徴発は厳しくなるだろうし、ジャングルばかりの土地に空港や道路、基地が必要な作戦であれば、急いで頭数をそろえて提供しなければならない。無理な日程を守るために休ませてももらえず、圧力がかかり焦る気持ちは、病気になったロームシャを”気合いが足りない”といって殴る行為にもつながっただろう。

 

働けなくなったロームシャは放置し、次々と新しいロームシャを集めることで工事が遅れないようにする。計算式通りの答えしか許されない時代。現代なら重機を使えば済む作業のために多くの魂と肉体が踏みにじられた。

 

スカルノ氏が批難されたのはロームシャの件だけではなかった。各地に公認の慰安所を設けたことについても、イスラム教の大御所や団体から猛反発を受けていた。これまで民衆のためにと思ってやってきたことについて、その民衆から否定されるような攻撃を受けても、(すでに高い地位にある人にありがちな)自尊心や面目のために方針を変えるといったようなことはなく、一貫して平和的に独立を達成するという目的からブレなかった。


”君主制にして君が王様になればいいじゃないか”と日本軍側から言われたとき、スカルノ氏は共和制以外考えられません、と即答で断ったという逸話がある。独立を指示したのは日本ということだが、どんな国として独立させるかについてまでは、日本側の関心ではなかったようだ。スカルノ氏の気持ち次第でどうにもできる状況にあった中で、確信を失わず忍耐強く人々を導いた彼の功績はやはり大きい。
 

(続く)