<敗北後の復興運動>

紀元70年、ユダヤの人々はローマ帝国との戦いに敗れました。しかし、紀元前586年にバビロニアに滅ぼされた時のような住民全員のカナーンの地からの追放という事態には至りませんでした。財産を没収されるなど、厳しい状況には追い込まれたにしろ、ユダヤの人々がカナーンの地で暮らすことは認められました。

 

しかし、ユダヤの人々にとって、エルサレムの神殿が破壊されたのは、大きな打撃でした。神殿での祭式を行うことができなくなったからです。また、神殿が破壊されたことによって、神殿での祭式を司っていた祭司の地位の低下を招くことにもなります。

 

しかし、ユダヤの人々は、バビロニア捕囚期に、神殿がない状況でもユダヤ教としてのアイデンティティを維持するための方法を見出していました。それは、安息日ごとに、各地域のシナゴーグに集まって、礼拝と律法の研究を行うというやり方でした。ユダヤの人々は、第二神殿が完成した後も、この方法を維持していました。

 

とくに、ファリサイ派の律法学者は、シナゴーグを活動の拠点に置いていたので、神殿が破壊されても、根本的な打撃は受けませんでした。彼らが中心となって、捕虜収容所があったヤブネに拠点を移して宗教復興運動を開始します。従来、神殿で行われていた会議をヤブネで行うようにし、祭司に代わって総主教を中核とする総主教制度を創設しました。そして、総主教制度のもと、ユダヤ歴の制定、法規の改正などを行い、宗教共同体の基本的な枠組みを再構築しました。

 

紀元96年になると、ローマ帝国が、ヤブネ会議の総主教をユダヤ人共同体の首長として承認しました。ローマ帝国によって正式に承認を得たことによって、ヤブネ会議を中心としたユダヤ共同体の再建が本格的に進められることになります。この時代に、今日に続く典礼や慣習が形成されることになります。また、祭司に代わる新しい指導者として「ラビ」が正式に登場することになります。すなわち、ラビは律法学者で、以前から人々の指導にあたっていましたが、この時期に祭司に代わってラビが中心となって指導し、トーラーや口伝律法に基づいた宗教生活を実践する体制が始まるのです。いわゆる、「ラビのユダヤ教が」が確立するのはこの時期です。ただし、ラビは無給でしたので、生活のために別の職業を持っていました。

 

シナゴーグも、破壊された神殿に代わるユダヤ人の集会施設として、この時期、重要な意味を持つようになります。シナゴーグとは、ギリシア語の集会を意味することばで、カナーン以外の地で暮らしているユダヤ教徒たちは、神殿破壊以前から儀式や礼拝のために利用されていました。神殿破壊以降は、ユダヤ人の社会全体でシナゴーグが公的な集会場として用いられるようになります。シナゴーグで定期的に礼拝が行われ、また、そこでのトーラーの朗読やラビによる講釈が人々の宗教生活に重要な意味を持つようになります。

 

つまり、この時期に、「ラビのユダヤ教」が確立しますが、それは、指導体制が祭司からラビに移行し、祭祀の場所が神殿からシナゴーグに移行することによって、今日的なユダヤ教へと変身したのです。

 

紀元前90年頃、聖典を集めて整理する作業が行われました。理由の一つは、神殿を失ったユダヤの人々にとって、神殿に代わる信仰のよりどころとして、聖典・律法がますます重要な意味を持つようになってきたからでもあります。つまり、聖典に示されている内容をユダヤ教徒一人一人が学び、実践することが宗教活動の中心となるからです。

また、もう一つの理由は、この頃になると、ユダヤ教から別れたキリスト教がしだいに勢力を伸ばしてきたので、両者は論争することが多くなりました。とくに、イエス・キリストについて、預言者であるのかどうか、メシア(救世主)であるのかどうか、あるいは、人間であるのか神であるのか、などに関して論争する必要に迫られたからです。

 

メシアとは、ユダヤ教では、油を注がれて聖別された人を意味し、危機的状況に際してユダヤの人々を救い出してくれる存在とされています。ですから、ユダヤ人に対する迫害が始まるなど、危機的な状況になると、ユダヤ人の中から、必ずメシア待望論が浮上します。

それに対して、キリスト教では、メシアとはイエス・キリストをさします。ユダヤ教の聖書で予言されていたメシアが、イエスとして現れたと考えるのです。