<ローマによる直接支配>

紀元6年には、ヘロデ家が追放され、ユダヤの地域はローマ帝国の属州となり、非ユダヤ人の総督が統治することになります。歴代の総督たちは、ユダヤ教とそれを信仰する人々について無知であり、理解しようともしませんでした。

 

紀元26年以降、ローマ人総督の横暴に対するユダヤの人々の反感が高まってきます。それらの総督の中には、イエス・キリストの処刑にかかわった総督ピラトも含まれています。また、紀元37年に皇帝となったカリギュラは、自身の金の像をエルサレムの神殿に置いて拝むよう命令をだしましたが、それが、カリギュラの突然の死によって回避されたのは幸いでした。そのようにユダヤン人々が追い詰められていく中、「シリカ党」という、ユダヤ教徒のテロ集団が現れ、反ユダヤ的な振る舞いをする人々、とくにローマに協力する人々を襲撃するという事件も起きました。

 

紀元66年、ローマ総督風フロルスが、エルサレムの神殿から財宝を奪い取ったことが契機となって、ついに、大規模なユダヤ人による反乱が始まりました。「第一次ユダヤ戦争」と呼ばれているものです。とくに、武装闘争派の「熱心党」が中心となって、エルサレムからローマ総督と守備隊を排除することに成功しました。すると、この勝利に呼応して、全ユダヤ共同体がロー帝国に対して反乱を起こしました。ところが、ユダヤ人の内部でも激しい内部闘争が繰り返されて、しだいに反乱軍の士気が低下していきます。

そして、結局、紀元70年、ローマ軍が勢力を盛り返して、エルサレムを占領します。その際、ヘロデによって大改修された第二神殿が破壊されてしまいました。反ローマを掲げたテロ集団「シリカ党」は、最後までローマ軍に抵抗を試みますが叶わず、ついに、紀元74年、全員自害をもって幕を閉じました。

 

ローマ軍はエルサレムから戦利品を持ち帰り、ローマ市民に見せるために凱旋パレードを行いました。また、ローマの広場には記念の凱旋門が建てられました。この凱旋門は、現在でもローマの広場にみることができます。