<反ローマ蜂起、そしてデアスポラ>

132年には、再び、ローマ帝国に対してユダヤ人たちが一斉蜂起します。「第二ユダヤ戦争」と呼ばれているものです。反乱のきっかけは、ローマ皇帝ハドリアヌスの反ユダヤ政策でした。ハドリアヌスは、ローマ帝国領内各所に神殿を建築しますが、それはローマの神ジュピターを奉仕するための施設でした。その神殿をエルサレムにも建設し、しかも、エルサレムに代わる「アエリア・カピトリーナ」というローマの都市を建設しようとしました。このような、とうてい許しがたい暴挙に対してユダヤの人々は一斉に反旗を翻したのです。

 

この反乱は、第一次ユダヤ戦争に比べてより組織的でしたし、ラビたちの指導体制も整っていました。この反乱における指導者の一人が、シメオン・バル・コジバというラビでした。彼はユダヤの人々からメシア(救世主)と見なされました。彼自身も自らを「イスラエルの王子」と称し、人々の要望に応えるような振る舞いをしました。しかし、彼の有能さをもってしてもローマ軍に立ち向かうのは無謀というものでした。135年に、彼は殺され、彼に従った人々も一掃されました。

 

反乱が鎮圧された後のローマによる対処も、前回はより徹底したものでした。ヤブネ会議が解散させられ、シナゴーグでの集会やトーラーの教示が禁止され、割礼や戒律を遵守する行為などもすべて禁止されました。なにより、ユダヤの領域からユダヤ人が完全に追放されてしまいます。さらに、「ユダヤ」の名称が「パレスティナ」に改称されました。ユダヤの人々が暮らした痕跡まで消し去ろうとする政策です。エルサレムにはローマの都市アエリア・カピトリーナが建設され、ユダヤの人々は、これ以後、パレスティナへの立ち入りが禁止になりました。ユダヤ人の多くはガリラヤ地域に送られ、また、奴隷として売られるユダヤ人も膨大な数に上りました。そのために、奴隷の価格が低下して、馬一頭と同じ値段にまで下がったといわれるほどでした。

 

これを機に、ユダヤ人の「デアスポラ(離散)」が本格的に始まることになります。これ以降、ユダヤの人々は、国連の主導によって、1948年、「イスラエル」国が建国されるまで、国を持たない民族として放浪することになるのです。

なお、「デアスポラ」ということばは、これ以前にも、カナーンの地以外のエジプトやメソポタミアなどで暮らしているユダヤの人々に対しても用いられていました。その場合は、神から与えられた約束の地以外の場所で暮らしているユダヤ人という意味で用いられていました。しかし、約束の地も失い、完全な離散の状態に置かれたのは、第二次ユダヤ戦争に敗北した135年のことでした。

 

ユダヤ人に対する組織的な迫害は、ハドリアヌス帝が死亡する138年まで続きました。彼の死後、厳しい迫害が収まるとまもなく、ヤブネ会議を解散させられたラビたちは、140年ころ、ガリラヤで新たな会議を設立しました。これが、これ以降、ユダヤ人共同体の結束の核として機能するようになります。