1777年4月30日、天文学や電磁気学にも精通していたドイツの数学者が生まれています。誰? | KMプロデュースのブログ

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今週の問題

1777年4月30日、天文学や電磁気学にも精通していたドイツの数学者が生まれています。誰でしょう。


選択肢
・ローレンツ
・ライプニッツ
・ラプラス

・ガウス

・グーテンベルク

正解…ガウス

解説

18世紀のレオンハルト・オイラーと並んで数学界の二大巨人の一人と呼ばれ、19世紀最大の数学者の一人として数えられたというヨハン・カール・フリードリヒ・ガウス(1777~1855)はドイツ出身の数学者・天文学者・物理学者です。

 

1777年にブラウンシュヴァイクで、煉瓦職人の親方の父と慎ましい母との間に誕生したのですが、両親共学問とは無縁でした。そんな両親の元で育てられたにも関わらず、言葉を満足に話せるようになる前から誰から学ぶことなく計算が出来たそうです。

実際3歳ぐらいの頃、父親が職人達に支払う給料の計算をしていた時に間違いを指摘され、見直したところガウスの指摘通りだったといいます。

それだけでなく、酒樽の体積を求めるにあたって、それをスライスした面の面積を調べて積み重ねればよいという積分の概念も自力で導き出しました。

 

7歳になって地元の小学校に入学するのですが、算数の授業で教師が、「1から100までの数字すべてを足せ」という問題を出し、生徒たちが問題を解くには相当な時間がかかるだろうと考えていたものの、

 

1+100=101、2+99=101、…、50+51=101

 

とやっていくと101の集まりが50個出来るため、101×50=5050になるという考え方をわずか数秒で導きだして教師を驚愕させたエピソードがあります。

この計算方法は隣り合う二項の差が常に一定である級数で、等差級数の和の公式になりますが、当然ガウス自身この事実を全く知らなかったため、オリジナルで発見していたことになります。

ビュットナー校長に算数を習うもののガウスは習得済みで、校長は自費でより高級な算術の教科書をハンブルクから取り寄せるもすぐ読み終えたそうで、校長曰く、

「これ以上教えられることはない」

と述べ、助手であるヨハン・バーテルスに委任することにしました。こうしてガウスとバーテルスは共に学んで教科書を改良したりして、新しい概念を生み出すようになりました。元々バーテルスはブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公フェルディナントの知人で、1791年にガウスは彼に謁見して援助を受けられるようになりました。

 

1792年、15歳になったガウスは一日15分ずつの予備時間で1000個ずつの自然数にそれぞれいくつの素数が現れるかを調べ、次第に減っていく様子から約100年後に証明される素数定理を予想していました。

 

1795年にゲッティンゲン大学に入学して最小二乗法を発見し、翌年になると平方剰余の相互法則の証明と、コンパスと定規のみで正十七角形を作図できることを証明しました。実際この当時まで作図できる正素数角形は、約二千年前に発見された正三角形・正五角形のみであったため、作図できる正多角形の種類が増えたことから数学界に大きな衝撃を与えました。この成果を非常に喜んだガウスは正17角形を墓標に刻むよう申し入れたものの実現せず、記念碑としてのちに刻まれることになります。この発見が決め手で、数学的発見を記述したガウス日記を付け始め、将来の進路で数学者として生きることに決めたそうです。

学位論文では代数学の基本定理を最初に証明し、後にこの問題に対して、3つの異なる証明を行って、複素数の重要性を決定付けました。

それから1798より9年間ヘルムシュテット大学で過ごすことになるのですが、一年目で代数学の基本定理を証明し、1801年には現代整数の表記導入や、円周等分多項式の研究をしました。

この大学でハンガリー貴族のファルカシュ・ヴォルフガング・ボヤイと出会いますが、ガウスの家を訪問した際に、ガウスの母がボヤイに、

「息子は優秀か?」

と尋ね、

「ガウスはヨーロッパ一の数学者になるでしょう」

と答えると、母はあまりの嬉しさに泣き崩れたそうです。

 

 

ガウスのの最も偉大な貢献は数論の分野で、1801年に研究の成果をまとめた「Disquisitiones Arithmeticae」というものを出版します。

内容を大雑把にいうと、二・三元の二次形式の研究で数の合同の記号を導入した合同算術の明確な表現、平方剰余の相互法則の完全証明、自然数の素数による一意分解の定理の明確化、円分体の理論、素数定理に対する予想などです。

ただこの本はトップ数学者からの評価は高いものの、あまりにも難解すぎることや、出版社の問題で発行部数が低いこともあって理解できる人が限られていました。大勢に理解されるようになるのは晩年になってからになります。


あとこれらは未発表ですが、解析学の分野で、多項式が実数の範囲内で1次または2次の因数に分解されるとして、複素数の世界に深く分け入ることで数々の結果を得ました。

1797年から始まる楕円関数の最初の研究であるレムニスケート関数の発見に成功し、1800年には一般楕円関数を発見していますが、実際楕円関数の発見が世に公表されだしたのがおよそ30年先にことで、クレレ誌上のニールス・アーベルの論文だったことから、ガウスが時代を先取りしていました。同じ頃にもモジュラー関数も発見していますが、これも50年先にデーデキントの同種の仕事で先取りしています。

その他に、関数論はに至っては1825年のコーシーの虚数積分の論文に端を発して、その後30年を掛けて対象としての解析関数の認知にまで発展させていますが、ガウスは14年前の1811年にすでに「コーシーの積分定理」として知られる事柄を確実に把握して使いこなしていたそうです。
 

1806年にブラウンシュバイク公爵が死去するまで、援助生活で困ることがほとんどなかったのですが、当の本人は数学そのものがそれほど世の中の役に立つとは考えてなかったそうです。そこで天文学者も目指すようになり、1801年発見以来行方不明になっていたケレスの軌道決定の功績が認められ、1807年にゲッティンゲンの天文台長に就任し40年間務めていく事になります。

そこでも測定用機材の開発(ガウス式レンズの設計)、楕円関数の惑星の摂動運動への応用、力学に於ける最小作用の法則の定式化の一つである「ガウスの最小拘束の原理」などの数々の発見をしています。

ガウスにとっては研究で美しい結果を得ることそのものが最大の報酬という考えの持ち主だったため、名声は必要ではなかったといいます。当時は成果発表手段が自家印刷の小冊子や単行本しかなかったため、アーベルの「代数方程式に関する論(五次の一般的な方程式を解くことの不可能の証明)」という自家印刷の粗末な小冊子とかに至っては世間に認知されぬまま終わりました。

このような時代でも解析学の大著述を計画していったのですが、研究が進むにつれて考察する範囲がどんどん広くなり、おまけにナポレオンによるヨーロッパの政治混乱による経済的困窮などで世に出ることがありませんでした。


そんな中、1809年にTheoria motus(『天体運行論』)の中で彼の主要な研究であった最小二乗法について記したものが発表されました。これは現在の科学でほぼ全ての分野で観測等の誤差を含むデータから推定値を求める際の計算法として用いられます。

これについての論文は1805年にアドリアン=マリ・ルジャンドルが発表していますが、ガウスは10年前にこの理論に到達していました。


1818年にはハノーファー王国の測量をする測定装置のために、測量結果の誤差に関する興味から正規分布について研究を始めました。このときの測量成果の取りまとめに当たって考案した、等角写像による地球楕円体表面から平面への地図投影法はガウス・クリューゲル図法として現在も世界各国で活用されていますが、そこから曲面論を創始し、後のリーマン幾何学に多大な影響を与えました。

そして1827年には『曲面の研究』を出版し、曲面の面積と対応する単位球面の面積の無限小比として意味付けられる曲率(ガウス曲率)が曲面の内在的量にのみ依存することを示した、ラテン語でいう「驚異の定理」を作り上げました。この定理は、微分幾何学において「ガウスの定理orガウスの基本定理」と呼ばれます。


その他にも、非ユークリッド幾何学の一つである双曲幾何学を発見していますが、これについては不完全なものが多くて未発表でした。そこで友人であるボヤイがユークリッド幾何学以外の公理を発見しようと多くの年月を費やすも失敗、ボヤイの息子であるヤーノシュ・ボヤイが引継ぎ、1820年代に双曲幾何学を再発見して1832年にようやく結果として発表されたそうです。

 

ガウスも地球磁気の研究に関連してフーリエ級数展開の高速な計算方法も開発し、データ数が2の冪乗の場合についての論文も記述していますが、1831年に物理学教授のヴィルヘルム・ヴェーバーと共著を行って、電磁気学について多くの回答を与えました。この中で、ガウスの定理・ガウスの法則・ガウス(磁束密度の単位)・ガウス単位系は彼の名に因んだものが出てきます。

電気でキルヒホッフの法則に当たるものをガウスが発見して電信装置を作り上げ、1873年のウィーン万国博覧会に展示されました。そこでモールスはこの話を旅行中の船上で人から聞いて電信符号を発明しました。これが俗に言うモールス符号です。

 

他にも液体の表面張力や毛細管現象などについての研究も発表していますが、ガウスの研究の志向はその時代に自然哲学の巨星であったニュートンやオイラーが為した業績をさらに前進させるといったものが多かったようです。
こうしてガウスは1855年にゲッティンゲンで77歳の生涯を閉じ、Albanifriedhofの墓所に埋葬されました。

死後は1989~2001年にユーロ紙幣となるまで、彼の肖像と正規分布曲線が10マルク紙幣に印刷されたことがあり、生涯彼の弟子だったG・ワルドー・ダニングトンは、ガウスの伝記 『カール・フリードリヒ・ガウス: 科学の巨人』 など多くの著作を残しました。

ユーロ紙幣の発行が終わった2002年には、国際数学連合とドイツ数学会はガウスの事跡を記念して「ガウス賞」が創設され、現在に至っています。

なお、「ガウス」の名が付いた法則、記号、単位等は以下の通りです。

 

ガウス引力定数 - かつて天文単位などの基礎となってきた定義定数。2012年より天文定数表から除外
ガウシア (小惑星) - 小惑星番号1001番の小惑星。ケレスの軌道決定の功績を称えて命名
ガウス(磁束密度の単位)
ガウス関数
ガウス積分
ガウス記号
ガウス曲率
ガウス・クリューゲル図法
ガウス格子
ガウス=ザイデル法
ガウス写像
ガウス整数
ガウス単位系
ガウスの求積法
ガウスの光学系
ガウスの消去法
ガウスの超幾何級数
ガウスの発散定理
ガウスの微分方程式
ガウスの法則
ガウスの補間法
ガウス分布
ガウス・ボネの定理
ガウス平面
ガウス・マニン接続
ガウス=ルジャンドルのアルゴリズム
ガウス和


 

ローレンツはローレンツ力やローレンツ変換といった電磁波の研究を行った物理学者で、ノーベル物理学賞を受賞しています。
ライプニッツは二進法やライプニッツの公式、ライプニッツの調和三角形、微分積分学といったのを発見したドイツの数学者です。
ラプラスは天体力学・ラプラス方程式・ラプラス演算子・ラプラス変換といったのを発見した数学者・物理学者・天文学者です。

グーテンベルクは活版印刷技術の考案をした金細工師兼印刷業者です。