大恐慌は再来するか(2)/安達誠司(ドイツ証券シニアエコノミスト)
1930年代大恐慌のプロセス[2]
住宅バブルの崩壊
今回の金融危機の発端は、「サブプライムローン」に代表される住宅ブームとそれにともなう住宅金融の急激な拡大であったが、1930年代のアメリカ大恐慌も、住宅ブームの崩壊が重要な意味をもっていた。アメリカでは、その建国以来、多くのアメリカ人(他国からの移住民を含む)にとって、「自分の住宅をもつ」ということが、アメリカでの成功の象徴、すなわち「アメリカンドリームの体現」として重要な意味をもっていた。そして、国民がアメリカンドリーム実現に向けて努力することは、アメリカの高い経済成長を実現させる強いインセンティブになるため、住宅取得を円滑に実現するための金融手段として、南北戦争後からすでに「モーゲージ証券」の仕組みが出来上がっていた。
それは、モーゲージ・カンパニーといわれる仲介業者が金融機関から貸付債権を買い取り、それを生命保険会社や富裕な個人に転売するという形態で、現在の証券化の基本的メカニズムは、すでに住宅金融発足当初からみられたことを意味している(よって、「今回の金融危機が証券化商品を媒介としているため、従来の金融危機とは異なる根の深いものである」という見方は的外れである)。
さて、1920年代に一大ブームとなった住宅投資だが、前述の金融引き締めは例外なく、住宅投資にもマイナスの影響を及ぼした。金利上昇によるモーゲージ金利の上昇は、家計の住宅保有コストを急上昇させたためである。
しかし、問題はそれだけではなかった。1920年代半ば以降、株式投資ブームは家計にも広く浸透しており、しかも、低中所得者層を中心として、多くの家計が前述の「ブローカーズローン」を利用し、株式投機に熱中していた。
そのため、ニューヨークの株価暴落は、家計に3種類の悪影響を与えた。1つ目は、追加証拠金の発生が家計を逼迫させることによって、可処分所得の減少、もっと極端なケースでは住宅等の資産の投げ売りをせざるをえなくなったこと。2つ目は、結局、保有していた株式の売却を余儀なくされるケースが多かったが、暴落後の株価での売却によって、多額のキャピタルロスを被るケースが多かったこと。3つ目は、「アメリカの永遠の繁栄」という希望を失い、将来の生活不安から現金や金を保蔵するケースが増え、これが消費、とくに耐久消費財の消費を抑制させたこと、であった。
当時のアメリカは「T型フォード車」に代表されるような耐久消費財産業の全盛期であったが、住宅ブーム崩壊が与えた家計への打撃はいわゆる「逆資産効果」を通じて、耐久消費財産業や住宅・建設産業の設備投資、雇用を大きく減少させ、そして、これが家計の所得減へと波及、さらに、それが企業の設備投資、雇用の削減をもたらす、というような深刻なデフレスパイラルとなってアメリカ経済に襲い掛かったのである。
ところで、大恐慌期のアメリカでは、雇用者数が、それ以前のピークから約40%減少したといわれているが、じつにその3分の1が住宅・建設関連の業種に勤めていた労働者であった。このように株価暴落の影響は、住宅ブーム崩壊の影響へ波及し、それが消費や設備投資、雇用といった実体経済に波及していくというかたちで深化していったのである。
1930年代大恐慌のプロセス[3]
新興国経済の崩壊
このような大恐慌の波及は、アメリカ国内にとどまったわけではなかった。当時のニューヨークは国際金融の一大拠点であったが、そのニューヨークは、ブラジルやアルゼンチンといったラテンアメリカ諸国を中心とした新興国の資金調達の場となっていた。
ニューヨークの株価暴落によって多額の損失を被った投資家のなかには、当然、大小の金融機関が含まれていたが、アメリカ国内の株式投資による損失によって、それらの金融機関による新興国が発行する債券の引き受けが困難になり、新興国の資金調達が事実上ストップした。またそれだけではなく、これらの金融機関はすでに保有していた新興国発行の債券を投げ売りすることによって、新興国に投資していた資本を引き揚げはじめた。
新興国の苦境はそれだけにとどまらなかった。当時、新興国の多くが、天然資源や食糧等の一次産品の輸出を主要産業としていた。もちろん、当時からこれらの一次産品の価格は日々の国際商品市場での価格に応じて決定されていた。しかし問題は、この国際商品市場にも、ニューヨーク同様に投機的取引を専門的に行なう業者が存在し、しかもニューヨークの株式と国際商品の取引を同時に行なっている業者が多数存在していたことであった。
ニューヨークでの株式取引で莫大な損失を被った投機家は、国際商品市場での取引で売り方に回るか、もしくは取引を中断せざるをえなくなったため、国際商品市況はニューヨークの株価同様、大暴落した。これによって、新興国が輸出する一次産品価格も大きく低下し、新興国の輸出が急激に減少することとなった。
このように、最大の輸出相手国であるアメリカの需要急減やアメリカの金融機関の資本引き揚げによる国内の資金不足の影響に加え、主力輸出商品であった一次産品の価格暴落が、新興経済圏の景気悪化に拍車を掛けたことはいうまでもない(ちなみに、当時の日本の輸出の約七割が米国向けの生糸であり、これもアメリカ大恐慌の影響によって大損害を被り、これが昭和恐慌の1つのきっかけとなった)。また、この一次産品価格の暴落は、アメリカ国内の農業従事者にも同様の打撃を与えた。
このようにして、国際的な資金の流れを通じて、アメリカの株価大暴落の影響が新興経済圏の景気悪化へと波及し、大恐慌は世界レベルの大きさに深化していったのであった。
1930年代大恐慌のプロセス[4]
デ・レバレッジの加速
以上、1930年代のアメリカ大恐慌の深化のプロセスを概観してきたが、これを「金融的要因」を軸に整理してみよう。
1930年代のアメリカ大恐慌の発端は、景気過熱を防止するための金融引き締めであった。景気過熱に対して政策当局が金融引き締めで対処し、やがて景気が減速していくというメカニズムは通常の景気循環のメカニズムそのものであり、なんら特異な点はない。しかし通常の景気循環と大きく異なる点は、「過度」の金融引き締めが、資産価格の暴落を通じて投資家(家計、金融機関を含む)に膨大なキャピタルロスをもたらし、それが景気を「減速」から「崩壊」に近い水準まで萎縮させてしまった点にある。
このように、「金融的要因」が実物経済の収縮をさらに加速させてしまう現象を「フィナンシャル・アクセラレーター」という。これは、現在FRB議長であるベン・バーナンキらが提唱した、金融危機が増幅する恐慌の理論的なメカニズムである。これをやや詳しく解説すると以下のようになる。
資産価格の暴落は、投資家のリスクテイク能力を著しく毀損させてしまうことから、将来の成長のための投資を完全に麻痺させてしまう。家計、金融機関は、将来に対するリスクを可能なかぎり低減させようとリスク回避的な行動に走り、現金や金、国債といった安全資産の保有が拡大、もともとは、将来の成長のための前向きな投資に向かって流れるはずの資金が事実上ストップしてしまう。そのため、企業は存続に最低限必要な生産資源だけを残し、事業規模を大幅に縮小せざるをえなくなる。その結果、設備投資が大幅に減少、失業率も急上昇する。
ところで、このように、さまざまな経済活動には資金の裏づけが必要であり、しかも、その資金は金融機関の仲介によって経済を血液のように循環していく。その大本の資金はマネタリーベースといわれ、中央銀行によって供給されるが、そのマネタリーベースは金融機関を仲介し、経済メカニズムを流通するあいだに何倍もの規模に膨れ上がる。これがマネーの「レバレッジ効果」であるが、現金や金というかたちで家計等に「保蔵」されてしまうと(日本では「たんす預金」といわれる)、その流通速度は著しく低下してしまい、経済のあいだを資金が円滑に回らなくなってしまう。
その結果、経済全体のお金の量は減少してしまう。これは「デ・レバレッジ」(「レバレッジ」と逆の現象)といわれる。大恐慌の過程では、資産価格の暴落が起きると、金融機関がその資産構成を安全資産(現金、国債)に変え、それがさらなる資産価格の暴落を招くケースが多い。
そして、この資産価格の暴落が投資におけるリスク回避的な行動をさらに強め、投資家は、過去に行なった投資の回収や新規投資の抑制に動く(これには、資産価格の暴落が、将来における経済の成長期待を失わせ、投資に対する意欲を阻害するという効果もあるだろう)。そして、1930年代のアメリカでは、このような「デ・レバレッジ」の動きが「フィナンシャル・アクセラレーター」というメカニズムを通じて景気悪化を加速させたのである。
じつは、1930年代のアメリカ大恐慌は、深刻な金融危機を2回経験している。第1回が1930年11、12月であり、第2回が1931年9月から1932年1月にかけてである。
このうち第1回の金融危機では、FRBの緊急利下げと大量の資金供給によって、なんとか事態は鎮静化した。しかし、その後の第2回の金融危機では、FRBによる大量の資金供給にもかかわらず、金融機関の破綻が相次ぎ、ついに1933年3月にルーズベルト大統領が「バンキングホリデー」(銀行業全体の休業)を宣言、緊急銀行法を成立させた。
緊急銀行法では、新設されたRFC(復興金融公庫)が金融機関に資本増強のために優先株式を発行させ、それを直接買い取ることで、金融機関の破綻を未然に防ぐ政策が採られた。その後、金融機関の破綻は激減し、金融システムは安定へ向かった。