いつの頃からか、頭の中で常に文章が流れているようになった。
心の中で思うこと、頭の中で考えることが言葉にして連なって、そのまま書き出せば、こうして「誰かに向かって書いているように」文章として成立していると思う。
たぶん、その昔にニフティのパソコン通信を始めたのがきっかけだと思うので、あれが1996年のことだから、かれこれもう19年ほどもそんな状態が続いている。パソコン通信は2006年に終焉したが、その後も私はmixiの日記だの観劇の感想ブログだのと、なんかかんかと書き続けてきた。それらで書く文章は、常に私の頭の中を流れている文章の、そのごく一部に過ぎない。
そう、だから私は誰かに向かって話しかけているのではない。誰かに向かって「書いている」のだ。
それらのほとんどはこうして出力されることはないが、確かに「誰かに向かって頭の中で書き続けている」という自覚がある。その「誰か」というのは、具体的に存在する相手がいないわけでもないが、ここ数年あたりは、自分の知らぬ不特定多数の「誰か」であったりすることもある。
ああ、それにしてももどかしい。
頭の中で書けば文章は次々と勝手に流れていくというのに、こうして本当に書き出すとなるとある程度の時間がかかるし、だいいちパソコンが目の前になければ話にならない。
変換ミスや誤字・脱字も多いので(それは時々放っておくこともあるけれど)一応は目を通さなければならないし、それよりも、いたずらに他人を傷つけたり悲しませてしまわぬように、無意味で無駄な敵を作らないようにと、書きながらいちいち検証しなければならない。
書いて、それを実際に他人に見せるということは、案外と不自由なものなのだ。
それでもやはり、時々はこうして頭に流れる文章を表に出したいという欲求がどうしようもなく湧き起こる。
それはつまり、誰かに向けて「出さなかった手紙」と同じだからだ。メッセージだからだ。
出さないからこそ、際限も無く書き続けているような気もするが、それでもやっぱり出したくて書いているのだろう。亡くなったあの人へ、生きているあの人へ、そして見知らぬ誰かへ…。
というわけで、
頭の中で流れている文章を、時々このブログで流しきってしまおうと思う。
今までずっとそうしたかったのが、随分と長い年月を躊躇していたのは、「そんなものを書き出して何になるのか」という想い、…たぶん、その根底にあるのは自分を卑下する気持ちがあるからなのだろう。
「貴方へ」と書いた手紙が、読んでもらう価値のない、つまらない手紙と自分で決めつけているのだから、その貴方へ向かって出す勇気が今の私にはまるでない。ましてや、返事の来ない手紙を延々と出し続ける根性もない。
生きている貴方へ、亡くなった貴方へ…返事の来ない手紙、読まれることのない手紙を延々と出し続けることは、ある意味狂っている人にしかできない。頭の中で19年間もそれを続けている私も我ながら異常のような気もするが、頭の中で済ませることと、実際にやるのとでは、その質が全く違うのだ。
それでも、時には流れるるままに流しきってしまおう。
川が流れ、海に注いでいくように、たまには何処かに注いでいかないと、時々この頭の中は言葉の洪水で溢れてしまい、どうしようもない。
そうして流しきって、外に出した「誰かへの手紙」を、別の誰かが拾ってくれる時があるのかもしれないし、ないのかも知れない。そんな希望も絶望も、あると言えばあるし、ないと言えばないのかもしれない。
これからは、もっと気楽に、もっと気ままに書こうと思う。
音楽:マイケル・ナイマン「Love Doesn't End」 絵:シャガール「時に岸なし」
(「夏に会ったひと」(7)からのつづき)
改めて思えば、都会育ちの私にとって、冬というのはさほど厳しい季節ではないのかもしれない。
冬枯れの色彩寂しき自然界とは裏腹に、人間達は冬にこそ案外と賑やかで、忙しくもあれば、暖かで楽しい時間を過ごしていたりするものだ。
クリスマス会や忘年会、お正月の帰省や新年会に初詣、その後はバレンタインなど……冬には家族や恋人、友人達と過ごす行事がやたら多いと思う。寒さの中で、人は他人のぬくもりを求めているのだろうか。
それにしても、どうしてこの季節の只中に1月1日が来るのだろう。
身辺の変化やスタートの日は、たいがいに春に多くて似つかわしい。
真冬の最中では、昨日と今日の自分に指したる変化はやって来ない。
それでも、毎年大晦日の晩ともなれば一年を振り返り、年が明けると新年の希望を思う。
横浜で暮らしていた頃には、除夜の鐘の音に重なって、遠くの港からかすかに届く霧笛を聞くこの夜が好きだった。正月を迎えるために清められた部屋の中にいて、静かに耳を澄ませてそれらの音を聞いていると、いつもより外の空気さえも澄んでいるように感じる。その静謐な時間は冬にこそ相応しいと思ったものだ。
過ぎ去る年を振り返り、次の一年を思うには、真冬こそが相応しい。
春に花開き、夏に成長し、秋には実り枯れ落ちていく。それらの季節を経験した後の冬という季節は、全ての到達であり、同時に次の始まりを秘めた季節と言えるだろう。
そして私は今、現実の冬の中で、人生にも巡る何度目かの冬をも迎えている。
振り返れば、どの季節にも楽があり苦があった。実りもあれば、挫折もし、厳しい寒さを迎えて人の温もりを求めた。後悔をし始めたら切りがない。
それでもなお、いつか再び、私にも「人生の四季」がまた巡るだろうと信じている。
到達は始まりだ。この冬を最後にするにはまだ早い。
何度新しい季節が巡り来ようとも、私は通り過ぎた時間を無くしはしない。
それらの思い出は時を経るごとに曖昧となり、私の雑念と妄想が入り混じる夢となっていくだろう。この今もまた。
惜しむ「時」のすべては私の魂と同化して、やがてこの魂も万物に混じり消える時、私にも「永遠」が見えるのかもしれない。
その日が来るまで、生きようと思う。
-終わり-
煌月
最後まで読んでくださいまして、ありがとうございました。
絵:シャガール「時に岸なし」
「夏に会ったひと」2015/2/9完結
「夏に会ったひと」(1) ※←タイトルをクリックしていただくとページに飛びます
四季の中では秋が好きだ。
特に金木犀の咲く頃が一番好きだと思う。
「夏に会ったひと」(2)
二番目に好きなのは春。
それは桜の咲く頃。
「夏に会ったひと」(3)
「夏の終り」というのは、いったいいつの時を言うのだろうか。
それは「秋の始まり」とはまた別のものなのだ。
「夏に会ったひと」(4)
地球に四季が繰り返されるように、人の一生もまた、繰り返しに四季が巡っているではないかと私は思うのだ。
「夏に会ったひと」(5)
それは、猛暑と呼ぶに相応しい夏の、一番暑い日のことだ。
「夏に会ったひと」(6)
ふと、その二人の姿が目に浮かんだ。
どこかの広場で、道行く人々の足を止める大道芸人。
「夏に会ったひと」(7)
過ぎ去る時はさらさらと流れ、誰もそれを止めることは出来ない。
舞台の幕はやがて下り、祝祭の日々はいつか終わる。
「夏に会った人」(8)最終章
過ぎ去る年を振り返り、次の一年を思うには、真冬こそが相応しい。
文:煌月
「夏に会ったひと」2015/2/9完結
「夏に会ったひと」(1) ※←タイトルをクリックしていただくとページに飛びます
四季の中では秋が好きだ。
特に金木犀の咲く頃が一番好きだと思う。
「夏に会ったひと」(2)
二番目に好きなのは春。
それは桜の咲く頃。
「夏に会ったひと」(3)
「夏の終り」というのは、いったいいつの時を言うのだろうか。
それは「秋の始まり」とはまた別のものなのだ。
「夏に会ったひと」(4)
地球に四季が繰り返されるように、人の一生もまた、繰り返しに四季が巡っているではないかと私は思うのだ。
「夏に会ったひと」(5)
それは、猛暑と呼ぶに相応しい夏の、一番暑い日のことだ。
「夏に会ったひと」(6)
ふと、その二人の姿が目に浮かんだ。
どこかの広場で、道行く人々の足を止める大道芸人。
「夏に会ったひと」(7)
過ぎ去る時はさらさらと流れ、誰もそれを止めることは出来ない。
舞台の幕はやがて下り、祝祭の日々はいつか終わる。
「夏に会った人」(8)最終章
過ぎ去る年を振り返り、次の一年を思うには、真冬こそが相応しい。
文:煌月
(「夏に会ったひと」(6)からのつづき)
今思うと、あの夏は私にとっても「祝祭の夏」だった。
祝祭の日々は、そう長くは続かない。
祭りが終われば、人々は日常に帰って行く。
8月も終わると、祝祭劇「エレンディラ」は東京公演の幕を閉じ、その後は地方へと劇場を移した。
地方まで行けない私は、去って行った恋人を想うように繰り返し舞台の事を思い出した。
ヒロインの娼婦エレンディラは、恋人ウリセスを捨て、現実を求めて砂漠の向こうへ逃げていった。
彼女は愛を幻にすることで「永遠」を手に入れ、捨てられたウリセスは絶望の中で死ぬまで愛に囚われる。
舞台では原作にない結末を付け加え、ラストで年老いたウリセスが老婆と化したエレンディラと再会することになる。そして二人はかつての若く美しい姿に戻り、永遠の愛の世界へと旅立って終わった。
初日に会ったあの女性とは、彩の国でもう一度会うことができた。
彼女は初日に大道芸人と会って話をし、持ってきた差し入れの品も手渡せたと喜んでいた。それで無理をして、もう一度観に来たのだと言った。
私は彼女が少し羨ましかった。
何度足を運ぼうが、大勢のファンの中の一人でしかない私は、いつでも入れ換えのきく名も無き幻のような存在だ。
幻を愛する、幻の女達。
しかし、それで良いのだ。ファンという塊(かたまり)の中に溶け込んでこそ、私は幻の中にいられるのだから。
過ぎ去る時はさらさらと流れ、誰もそれを止めることは出来ない。
舞台の幕はやがて下り、祝祭の日々はいつか終わる。
過去は全てが曖昧な記憶と化していき、曖昧な記憶は夢と幻へ姿を変える。
まるで、あのエレンディラの祖母が見ていた、甘く美しい夢のように。
最初から幻の存在でいる私は、最後まで幻に生きるのだろう。
それは悪くない。
さらさらと去り行く時もまた、夢の中に閉じ込められたまま、永遠に留まり続けるだろう。幻の私に愛されながら……。
舞台「エレンディラ」は、正直に言うと当時はこれ程までに心に残る作品になるとは思わなかった。
しかし、時を経るごとに何かにつけて思い出し、あの時に理解できなかった事が少しずつわかってきたような気がする。
そして、「エレンディラ」を想う時は必ず、あの真夏の強い日差しと、そこで出会った女性を思い出す。
あのひとはまだ、大道芸人を見つめているだろうか、と。
彼女の祝祭の日々は、まだ続いているのだろうか……
私の心の中に描くその人は、まるで切ないシャンソンの主人公のように、広場で大道芸人に恋をし続けている。7年の時を経てもなお。
さて、話が長くなった割には、この話にはたいした展開もなく、今更だが読んでくださる方には申し訳ないと思う。
申し訳ないついでと言ってはなんだが、春と秋、過ぎ去る夏の話を書いては、最後に冬の話もしておきたい。
丁度これを書いている今は冬の季節だが、私の人生に巡る四季も、何度目かの冬を迎えている。
(8へつづく)