夏に会ったひと(5) | 重ねの夢 重ねの世界 ~いつか、どこかのあなたと~

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あなたの夢とわたしの夢が重なる時…もうひとつの「重ねの世界」の扉が開く


「夏に会ったひと」(4)からのつづき)


それは、猛暑と言うに相応しい夏の、一番暑い日のことだ。

彩の国さいたま芸術劇場は、私の足で駅から10分以上歩く。
クーラーの効いた電車で冷えた体も、ホームに降りたとたんに体温よりも熱い空気に蒸されて、体中の毛穴から汗が吹き出るようだった。
外は眩しい程によく晴れ、ギラギラと照りつける太陽は歩道のアスファルトを容赦なく焦がし、立ち昇る熱気は道行く人々の体温を更に上げた。
劇場までの道のりには、ほとんど日陰がないのが恨めしい。
私はその夏に買ったばかりの日傘を差して、汗で化粧が崩れてしまわぬように、なるべくゆっくりと歩いていた。急ぐと余計に汗が吹き出るからだ。
それでも私の心は華やぎ、浮かれていた。
この日は、待ちに待った舞台の幕が開く、その初日だったのだ。

「エレンディラ」は、ガルシア・マルケスの短編を原作とし、蜷川幸雄氏が演出、音楽はマイケル・ナイマンが担ない、「21世紀最高の見世物祝祭劇」と期待されていた。
その舞台の晴れがましい初日に、私は抽選で最前列センターの席を当てた。
好きな役者が新しい世界に生きる、その姿が目の前で観られる!間近から声や歌が届く!
劇場に着くまでの暑さには辟易したが、その嬉しさは何よりも勝るのだった。

与野本町の駅を降り、ほんの数分歩いたところで横断歩道を渡った。
その時だ。日傘の後ろから声をかけられた。
「すみません、彩の国劇場はどの辺りですか?」
振り返ると、40歳絡みの、ごく平凡な主婦のように見える女性が、不安そうな顔をしていた。
地図が苦手な私も初めて彩の国に来た時は、きっと同じような顔をしていただろう。
私と同じ「エレンディラ」を観るために、この女性は初めてこの地に来たのだ。
「この先を真っ直ぐですが、私も行くところなのでご一緒しましょう」と、私は彼女を日傘の中に入れた。

ただ、それだけの出会いだったのだ。
私が彼女と共に過ごした時間は、その道行きの10分足らずと、舞台の始まる迄のほんの2、30分の間だ。
それなのに、何故にこれほどまでに……あれから7年以上も経つというのに彼女の事が忘れられないのだろうか。
どこの劇場にもいそうな、ごく普通の、平凡な……つまり私と同じようなあのひとが……。


(6へつづく)