新婚旅行はヨーロッパや南国のリゾート地へ行く夫婦が多いと思いますが、入籍する前には旅行へ行きますか?

 

新婚旅行の目的は思い出作りだと思いますが、婚前旅行の目的は旅行を通じて相手の本性を知ることにあります。

 

結婚生活は想定外のトラブルの連続ですから、トラブルを乗り越えていけなければ続かないでしょう。

 

夜景の見えるオシャレなレストランで理想の生活を語っているだけでは、相手の本性は分かりません。

 

場の雰囲気に流されて全てが理想的に見えてしまうからです。

 

そこで、入籍する前に一緒に旅行をして相手のトラブル対処能力や金銭感覚、包容力などを見極めるのが有効です。

 

とはいえ、草津温泉や城崎温泉へ行っただけでは何もトラブルは発生せず良い思い出になって終わるだけだと思います。

 

そこでお勧めなのがインドです。

 

インドは不衛生でトラベルが多く大変ですが治安は悪くありません。

 

いくらチャレンジが必要と言ってもベネズエラのように白昼堂々刺されてしまう国へは行くことができませんが、インドは「注意していれば問題ないが、注意しないと金銭トラブルに巻き込まれる」という絶妙な温度感なのです。

 

インドで発生するトラブルに対してイライラせず冷静に対処できるかどうかで相手の本性を見極められると言えます。

 

たった1週間旅行しただけでも、電車や車が予定通りに来ない、お腹を壊す、詐欺に騙される(命の危険はないです)など様々なトラブルを経験でき、まるで長い結婚生活を圧縮したかのような経験を積めます。

 

インドには様々な言語や民族、所得階層がありますが、こういった多様性を受け入れられることも大切です。

 

なぜなら、多様性を受け入れられる包容力がないと、自分自身が鬱病になってしまった時に回復しづらいからです。

 

うつが少しよくなってくると、通勤訓練というものをしてもらうんです。まずは駅まで行って、駅前のサンマルクカフェで日経新聞かなんか読んで帰ってくるだけでいい。でも住宅街の朝の駅前って、みんな一斉に同じ方向にバーッて歩いて行くじゃないですか。その中で自分だけ電車に乗れないとなると、「俺はダメ人間」となっちゃう。これが下町の門前仲町とかに行くと、昼間っからカップ酒持ってグダグダしてる人だっていっぱいいる。そういうある種の多様性の中にいると、「俺もありかな?」みたいに思えるんだけど。

 

 
 
私も田園都市線沿線に住んでいたことがあります。
 
特にたまプラーザや青葉台、南町田などは、東急の肝入りで駅前の街並みはとても綺麗なのですが、「きちんとしなければならない」という無言のプレッシャーは極めて強いです。
 
朝から競馬新聞を読んでいるおじさんなど誰もいないからです。
 
一方、東部の足立区に住んでいた時は、朝から競馬新聞を読んでいるおじさんやパチンコ屋に並んでいるおばさんを大勢見かけました。
 
一般的にはガラが悪いと言われるのかもしれませんが、「きちんとできない人でも生きていて良い」という安心感を得ることができます。

 

関西で言うと、個人的には阪急沿線よりも阪神や京阪沿線の方がホッコリします。

 

南の方へ行くと、通天閣の近くのジャンジャン横丁には「西成モーニング」というモーニングセットがあり、朝からビールとおつまみをモーニングとして提供しています。

 

西成の居酒屋にいた時、客同士でこんな会話を耳にしました。

 

客A 「コロナ対策も大事やけど、経済も回してかなアカん」

客B「あんたは生活保護なんやから、あんたに経済は関係あらへんやないかい」

客A「俺は自分の利益やのうて、日本のためを思って言うとるんや。利他の精神や」

客B「日本の心配する前に自分の心配せい」

 

ざっくばらんな会話だなと思って聞いていましたが、こういうところにいると「まぁ、いざとなれば何とかなるか」という気持ちになれます。

 

東急や阪急沿線に住んでいると、この「まぁ何とかなるか」という感覚をなかなか得られないと思います。

 

インドにも色んな人がいるので、インドを許容できる人は多様性を許容できると言えます。

 

業績悪化でクビになるかも知れないし、うつ病や怪我で働けなるかも知れないし、津波で家が流されるかも知れないし、子どもが引きこもりになるかも知れません。

 

「私は鬱病になんてならない」「朝から酒を飲む怠惰な人はダメだ」と自分にも他人にも厳しい考えを持っている人ほど鬱病になりやすいです。

 

どんなに年収が高くても、いつ何が起こるか分からないので、そこを乗り越えていけるかどうかが結婚生活の真骨頂と言えます。

 

段々とコロナの規制も解除されてきて海外旅行をしやすくなっていますので、本当に困難を乗り越えて結婚生活を続けていけそうか、インドで確認するのはとてもオススメです。

前回の記事で少し書きましたが、私は幼稚園から中学校の頃にかけて母方・父方の祖父母が入れ替わり立ち代わり入院し、頻繁に病院へお見舞いへ行ったため、様々な入院患者の人と関わりました。

 

入院患者の人達を見ていて率直に感じたのは「痛そう」でした。

 

年に1回の予防接種の注射ですら痛すぎて憂鬱になるのに、私の祖父は糖尿病で毎日朝と晩にインスリンを打っていたので「毎日注射を打ち、週に3回も人工透析をするなんて絶対に耐えられない」と思いました。

 

実際、みんな明らかに痛そうな顔をしていました。小学校2年生の時には阪神大震災や地下鉄サリン事件がありました。

 

普段、少し熱いものを触っただけでも激痛で耐えられないのに、火事で亡くなるとか、建物が倒壊して亡くなるなど、自分なら痛すぎて耐えられないと思いました。

 

また母は「絶対に戦争を繰り返してはいけない」という反戦意識が強く、小学校低学年の頃から原爆投下やホロコースト、731部隊やポルポトの虐殺などのドキュメンタリーや映画を夕食後の時間帯に見せられていたのも影響していたと思います。

 

死ぬのが怖いとは特に感じなかったのですが、「人生の最後には激痛が待っている」と考えると怖かったです。

 

私は1人っ子で、友達とワイワイ騒ぐより1人で本を読んだりゲームをしたりボーっとするのが好きな子どもだったので、1人でいる時間が多かったのですが、1人でいるとしばしば死ぬときの激痛を想像して不眠症になっていました。

 

「人生の最後には激痛が待っているというのに、よくみんな不安にならず平気な顔をして毎日生きていられるな・・・」と不思議に思っていました。

 

私は先々のことが不安になる性格の子どもで、例えば翌週に注射があると、注射の日までずっと注射のことを考えてしまい憂鬱になってしまう子でした。

 

5~6歳くらいの時、ふと「死ぬときの痛さについては、これから80年近くも不安を抱え続けないといけないのか。」と先々の不安を考えて絶望したのを記憶してます。

 

「自分はこれから80年近くもこの不安を抱えなければならないのに、あと数年でこの不安から解放されるお年寄りは羨ましい」とすら感じてました(当時はそこまでの言語化能力はなかったのですが)。

 

親戚に医者のおじさんがいたので、「痛くない死に方はないの?」と聞いたところ、「睡眠薬を大量に飲んで雪の中で眠れば楽に死ねるんじゃない?」と教えてくれました。

 

それを聞いて「なるほど、その死に方はいいかも!いつどこで地震やテロに遭って痛い思いをして死ぬか分からないから、楽に死ねる時に死んでおいた方が安心じゃん」とも思いました。

 

親からは「そんなことばっかり考えてないで、明日友達と遊ぶこととか考えなさい!」と怒られたりしていましたが、人生の最後には激痛が待っているし、友達と遊んだからって痛みが減るわけでもないのに、そんなこと考えてどうするんだ・・・と考えていました。

 

陰キャの極みみたいな子どもでしたが、なぜこうなってしまったのかと言うと幼稚園から高校くらいまでは特に楽しいことがなかった、もしくは楽しさを感じる力がなかったからだと思います。

 

大学以降、だんだん楽しいことが見つかり、死ぬときの痛さについてはあまり考えなくなりました。

 

「最後は激痛が待っているかもしれないけど、今は楽しいことが色々あるから、まぁ死ぬ前に痛い思いをしても特に後悔はないだろう」と感じるようになりました。

 

それに、臨死体験に関する本やドキュメンタリーを色々見たところ、本当に命が尽きる時には全身麻酔のようなものが脳から放出されて心地よさを感じるらしいので、痛みに関する不安自体も薄くなってきました。

 

こういった経験から、今では逆に「人生楽しんだもん勝ち」という感覚が人一倍強くなりました。

 

不安を抱えて120歳まで生きるくらいだったら、長生きできなくても思いっきり楽しんだ方が良いと感じています。

 

最近は楽しいことが多いのでできるだけ長生きしたいですが、「早く亡くなったということは、それだけ死の恐怖から早く解放されたということだから、それはそれで良いのでは?」と考えているので、死ぬのが怖いという感覚はあまりありません。

 

長生きできたら嬉しいものの、「健康で長生きできなかったらどうしよう」という不安はあまりないです。

 

親が心配性になって勉強や習い事ばかりさせていると、私みたいに不安感の強い子は「勉強や習い事をしたところで最後には死が待っていて、何の不安解消にもならない。生きている限り死の不安からは逃げられないのに、生きる意味はあるのか」という方向へ行ってしまうかも知れません。

 

小さいうちから将来を心配して勉強するのも良いですが、それ以上に子どもはたくさん遊んで夢中になれるものを見つけて欲しいです。

私は幼稚園から中学校くらいまで、父方・母方の祖父母4人が入れ替わり立ち代わり様々な病気で入院したため、頻繁に病院へお見舞いに行きました。

 

祖父母は個室にいることもあれば大部屋に入ることもありましたが、頻繁にお見舞いへ行くと、他の入院患者の方とも仲良くなります。

 

お年寄りの入院患者でも、頻繁に家族や友人がお見舞いが来る方と、全く誰も来ずに常に1人の入院患者に分かれていました。

 

あるとき、確か小学校低学年くらいの頃、祖父と同じ部屋にいた、誰もお見舞いに来なかったおじいさんが亡くなりました。

 

親に「家族がいない人は亡くなった後どうなるのか?」と聞くと、親族の引き取り手がいない人は、役所の公務員が火葬して無縁墓地に葬られるということでした(あくまで親の理解なので、正確なことは分かりません)。

 

小さい頃、私の親族は全員結婚していて子供を持っており、結婚しないまま中年まで独身の人は誰もおらず、親族同士で助け合っていたため、結婚しない将来は想像ができませんでした。

 

母は「外の人は信用できない。最終的に信用できるのは身内」と言っており、実際に両親は頼りになる友人もいなかったので、家庭を持たずに生きていくという生き方が想像できなかったのです。

 

母方の祖父は糖尿病をトリガーに様々な病気を患い、週に3回も人工透析をしていました。足が悪く耳も遠かったため、母がタクシーを呼び付き添って病院へ行っていました。

 

特に私は一人っ子で、従兄弟との繋がりも希薄だったため、「結婚しないと天涯孤独で悲惨な老後が待っている」という強迫が小さい頃からありました。

 

どう悲惨かというと、糖尿病で人工透析が必要なのに付き添ってくれる人がおらず、車を呼ぶお金も気力もなくて、何日も自宅で苦しみながら誰にも気づかれずに亡くなるという未来です。

 

幼稚園の頃から祖父母のお見舞いに行き、苦しそうな病人の方をたくさん見過ぎたせいで、「人生の最後には悲惨な現実が待っている」という意識が強固に刷り込まれました。

 

そこで、「とにかく結婚して家庭を築かなければ」という謎の焦りが10代の頃からありました。

 

25歳で結婚することができたわけですが、色々あって34歳で離婚を選択した方が良い状況になりました。

 

友達からは異口同音に「その状況なら絶対に離婚した方がイイ」と言われたのですが、「天涯孤独だけは絶対にダメ」という強固な思い込みがあり、なかなか離婚に踏み切れませんでした。

 

もともと非モテということもあり、簡単に再婚ができないことが予想されたので、何とか結婚生活を立て直そうとしました。

 

1年以上すったもんだあって35歳で離婚したのですが、離婚して1人になって落ち着いて考えてみると、意外と一人も良いかも知れないと思うようになりました。

 

25歳まで実家にいて25歳で結婚をしたため、33歳まで1か月以上一人暮らしをしたことがありませんでした。

 

「1人暮らしは悲惨で、寂しすぎて耐えられないだろう」と思っていたのですが、33歳でコロナになって生まれて初めて一人暮らしをしてみると、想像以上の解放感を覚えました。

 

誰からも邪魔をされずに24時間自分の時間で使えることがこんなに幸せだったとは、知りませんでした。

 

引き続き老後の天涯孤独への恐怖は抜けないものの、子どもや孫に囲まれる老後を本当に自分が望んでいるのかは疑問に思えてきました。

 

孫が遊びに来たら喜ぶのが普通のお年寄りだと思うのですが、ひょっとしたら自分の場合は孫に貴重な時間とお金を取られるくらいなら、自分の趣味に時間とお金を使いたいと思いそうな気もします。

 

小さい頃、お見舞いが来ないお年寄りを見て勝手に「寂しそう」と決めつけてましたが、ご本人は自分の時間を満喫できて幸せだと感じていたかも知れません。

 

まだ分かりませんし、気持ちは変わるかも知れません。

 

平均寿命まで生きるとすると残り45年くらいありますが、行きたい場所も、読みたい本も見たい映画もたくさんあり、茶道などチャレンジしたい趣味もあり、たぶん残り45年間ずっと一人でも退屈はしないだろうと感じます。

 

学生時代の友人関係をほぼ断ち切ったおかげで良い友達にも恵まれ、1人でも寂しいという感覚はなくなりました。

 

家族がいないと病気や怪我をした時に苦労しそうですが、今は単身高齢者世帯も増えていて、インターネットもあるため、親世代とは状況も違うと思います。

 

ずっと1人だった場合、70歳くらいになるまで何とかするよう考えます。

仕事を頑張りすぎる人に対して「趣味を見つけて息抜きでもしたら?」と気楽に言う人がいます。

 

しかし、周りの期待に応えて頑張りすぎる人にとって趣味を見つけるのは至難の業です。

 

そういう人に「趣味を探しましょう」と言っても、いきなりは無理です。

 

趣味をやっているはずなのに精神的にエネルギーを取られる場合があります。

 

趣味で結果を出そうとしたり、「こんな趣味をやっている自分はカッコいい」という他者目線の動機で趣味をやっている場合です。

 

合唱を始めたらコンクールで優勝しなければならないと思ったり、ケーキ作りを始めたらインスタ映えするケーキを作らなければならないと思ったり、ブログを始めたらアクセス数を伸ばさないといけないと思ったりする人は、趣味でも「結果を出さなければならない」という考えに囚われて楽しめません。

 

それは趣味ではなく、承認欲求を満たすツールです。

 

本当の趣味は元気になるものです(身体的に疲れても精神的には元気になります)。

 

「誰の役にも立たなくていいし、結果も出さなくていいから、自分を満足させるためだけに楽しもう」などと言われても時間の無駄をしている気がして楽しめないし、そもそも何が楽しめるかも分かりません。

 

頑張って結果を出すことに頭を使い過ぎて、自分の感覚を掴む能力が死んでしまっているのです。

 

そこで、趣味を探す前に自分の感覚を取り戻すことが大切です。

 

自分の感覚を取り戻すためには、日常の小さな買い物で自分の感覚をキャッチするのが第一歩です。

 

例えば、いつも一番安い弁当ばかりかっているなら、少し頑張って「美味しそう」と感じる弁当を買ってみます。

 

英会話を趣味として始めるにはレッスンに何万円もかかりますが、お弁当の違いは数百円です。

 

回転寿司でいつも130円の皿ばかり取っているなら、思いきって中トロとウニとウナギを取ってみるなど。

 

ここで大切なことは、高いものを取るのではなく、美味しそうなものを取ることです。

 

お金を使うことが目的なわけでもなければ節約が目的でもなく、自分の感覚を取り戻すことが目的だからです。

 

日常の小さな買い物でワクワク感を感じられるようになったら、その先に「釣りをしてみたい」「絵をかいてみたい」「登山をしてみたい」など、もう少し大きなことが出てくると思います。

 

本物の趣味はその先にあります。

自分の気持ちに従って好きなことをするのは幸せなことですが、注意しなければならないのが依存症です。

 

好きだと思っていたことが実はただの依存症だったということもあります。

 

「好きなこと」と「依存症」の見極めは難しいですが、「イライラするかどうか」「罪悪感を覚えるかどうか」が一つの指標のようです。

 

「ギャンブルに勝ってうれしい、負けて悔しい」と思っている人はギャンブル依存症ではなく、「勝っても負けても嬉しくないが、ギャンブルをしていないとイライラする」のがギャンブル依存症です。

 

お酒を飲んで美味しいと感じ、お酒を飲んだ後で幸せを感じられる人は「お酒が好きな人」です。

 

一方、お酒を飲んでも美味しいとは思えないが、飲んでいないとイライラし、飲んだ後で罪悪感を覚えるのがアルコール依存症です。

 

複数の人と身体の関係を持って幸せを感じる人はセックス依存症ではなく、罪悪感を覚えるのが依存症だそうです(これは以前、「暴露ナイト」というテレビでやっていました)。

 

私は明らかなスマホ依存症で、赤信号の待ち時間でもスマホを取り出しますし、歩いている時もイヤホンでYouTubeを聞いています。

 

仕事でスマホを使っているからでもありますが、1日の平均スマホ使用時間のレポートを見ると10時間を優に超えています。

 

スマホを使ってないとイライラして、「手持ち無沙汰で暇だなぁ」と思ってしまいます。

 

そして、スマホを使い過ぎて不眠症になり「馬鹿なことをした」と後悔します。

 

症状は分かっていて対策も分かっているのですが、なかなか抜け出せません。

 

一方、私は歴史が好きで、国内外問わず旅行が好きで、古い邸宅や神社仏閣を見学するのが好きなのですが、旅行できない日があってもイライラすることはないです。

 

また、お寺に行った後「また旅行にお金と時間を浪費してしまった」と罪悪感を覚えることもなく、元気で幸せな気分になります。

 

本当に好きなことにお金を使うとストレスが減って無駄遣いや衝動買いがなくなるので、貯金も増えるそうです。

 

一方、依存対象はお金と時間を使えば使うほどストレスが溜まるので、お金がなくなります。

 

従って、本当に好きなのか?依存症なのか?の見極めはとても大事です。

 

未だに好きなのか依存症なのか分からないのがコーヒーです。

 

私は毎朝、お気に入りのカフェでアイスコーヒーを飲むのが好きなのですが、本当に幸せを感じてやっているのか、単なるカフェイン依存なのかが自分でもよく分からないです。

 

私は医者ではないので正しい保証はないですが、一般的にドーパミンが大量に出る行動は依存症になりやすく、本当に好きなものはセロトニンやオキシトシンが出る傾向が高いそうです。

 

皆さんは強いメンタルが欲しいですか?「強いメンタル」と聞いたとき、どんなメンタルを想像しますか?

 

私は、世の中の人達が言う「強いメンタル」の内容を詳しく聞いていくと、人によって全く正反対のメンタルを指していると感じます。

 

人生は山登りに例えられることが多いので、山登りに例えてみます。 

 

雷雨の中、険しい山道を、大した装備もなく登っている無謀な登山者に対して、AさんとBさんが正反対のアドバイスをしました。

 

Aさん:「これは試練なんだから、頑張って耐え抜け。頂上まで辿り着けば晴れている。ここで君のメンタルの強さが試されているんだ」

Bさん:「引き返すことにも勇気が必要だ。ここまで登ってきた道のりが無駄になるという恐怖もあるかも知れないが、命を落としたら元も子もない。ここで君のメンタルの強さが試されているんだ」

 

AさんもBさんも「君のメンタルの強さが試される」と言っていますが、結論は正反対です。

 

私は基本的にBさんの考え方で、「無理な時には引き返す」ことこそが本当の強さだと感じています。理不尽なことに対してハッキリと「No!」と言う勇気でもあります。

 

ブラック企業で毎日早朝から深夜までサービス残業をして上司からのパワハラに耐え続ける人が強いメンタルを持っているわけではなく、上司に対しても「No」と言い、話が通じなければサッサと転職できる強さのある人こそが本当にメンタルが強いと言えます。

 

「嫌な環境にも頑張って耐え抜いていく・・・」という意味でのメンタルの強さが身につくというのは、「感覚が麻痺していく」と表現した方が正確でしょう。

 

極端な例ですが、上司の命令に一切逆らわずに常に全力で仕事をしてしまうタイプの人がロシア兵になると、一生懸命ウクライナ市民を殺戮するでしょう。

 

上官の命令に反抗して手抜きをし、場合によっては亡命する覚悟のある人がウクライナ人の命を救うかも知れません。

 

ロシア軍で上官の命令に逆らったり亡命すれば命を落とす危険性がありますが、日本のブラック企業で上司に反抗したり転職したところで(最悪、日本には生活保護もありますし)死ぬことはないので何も怖くないです。

 

私も人のことは言えないのですが、「収入が低いのは世間体が悪い」「生活保護は恥ずかしい」と周りの目を気にして、ブラック企業から転職するメンタルの強さを持てないと、過労で死にます。

 

だからこそ世間体に左右されず「孤独を楽しめるかどうか」はとても大切です。

小学校の頃、よく先生から「学校行事も含めて何事も一生懸命取り組みなさい」と言われました。

 

しかし、なぜ何事も一生懸命取り組まなければならないのでしょうか?

 

当時、先生方からは「大人になれば分かる」などと言われていましたが、35歳になっても全く理由が分からないのでインターネットで調べてみたところ、Yahoo知恵袋などで「なぜ学校行事は強制なのか?」と質問をしている人を見つけました。

 

回答を要約すると以下の3つです。


回答1:学校行事も授業の一環だから
回答2:嫌なことに慣れるべきだから

回答3:学校教育を通じて協調性を身につけるべきだから
などという回答が並んでいました。

学校行事の強制参加について - 体育祭や合唱コンクールなどの参加は... - Yahoo!知恵袋

 

全て意味不明なので1つずつ反論していきましょう。

 

回答1:学校行事も授業の一環

確かに「学校行事も授業の一環」とはよく聞きます。「授業の一環」という名目で放課後や休日まで学校行事の準備を強制させられ、とても理不尽に思いました。

 

もちろん、私も全ての学校行事が嫌いだったわけではなく、文化祭や遠足は好きでした。しかし学芸会や運動会は嫌いだったので、文化祭は一生懸命やりましたが運動会は手を抜いてました。今振り返ると、嫌いな学校行事は手を抜いて大正解でした。しかし当時は優等生思考だったので、運動会に対して一生懸命になれない自分に罪悪感を持っていました。

 

この「学校行事も授業の一環なんだから一生懸命やりなさい」考え方は、「飲み会も業務の一環なんだから積極的に楽しみなさい」という謎の日本企業文化に似ていると思いませんか?

 

前職の上司は「部署の飲み会も業務の一環」と主張していました。本当に業務の一環なら飲み会費用の全額会社負担はもちろん、飲み会の時間分だけ残業代を支払うべきですが、残業代が出ないのはもちろん参加費用も自腹でした。

 

残業代も参加費用も出ないということは自由参加のはずですが、だからと言って飲み会を毎回欠席すると「コミュニケーションの円滑化に飲み会は重要だ(要は「空気読め」)」などと訳の分からない説教をされます。

 

時には「飲み会への参加を嫌がる人は成長意欲がない」などと言われることもあります。もちろん、飲み会へ行って親睦が深まり、業務にプラスになることもあるでしょう。しかし、どこまで成長したいのかは本人の自由意思によるべきで、「飲み会へ行ってまで成長したいとは思わない」という考えもあると思います。

 

もちろん給与を頂いてるので業務をサボったら減給や解雇という話になりますが、仕事をきちんとしているのに「飲み会への参加を嫌がるような成長意欲の低い姿勢は道徳的に問題だ」などと言われる筋合いはないです。

 

「業務の一環なら、正式に飲み会参加の業務命令をして残業代も払うべきでは?」と言うと「屁理屈を言うな」などと怒られます。

 

しかし「業務内なのか、業務外なのか」という線引きは極めて重要です。この境界が曖昧になると無限のサービス残業地獄からの過労死・過労自殺という結末が待っています。

 

子どもの頃から「授業だけでなく、部活も遠足も行事も全校集会も、全部授業です。だから一生懸命やりなさい」なんて言われ続けていたら、過労死の未来しか見えないでしょう。

 

家庭生活でも会社生活でも、「境界を死守する」という覚悟が幸せに生きるためには非常に重要です。たとえパートナーであっても自分の境界を踏み越えてきたら拒絶しなければなりませんが、ましてや上司や会社なんて絶対に踏み越えさせてはいけません。

 

子どものうちに身に着けるべきスキルは、教師や同級生が何と言おうが、どんなに冷たい視線を投げつけられようが、周りの視線を無視して手抜きをする「嫌われる勇気」と「孤独を貫く覚悟」だと思います。

 

日本の学校教育は同調圧力が半端ではないので、もしその環境で本当に自分らしさを貫ければ逆説的に「自分らしく生きる力」がメチャクチャ身につく環境だとは思いますが、少しストイックすぎるように思います。

 

多くの人は同級生や先生からの無言の同調圧力に屈することができず、サービス残業への道を歩むことになってしまうと思います...

 

回答2:嫌なことに慣れるべき

 

この回答があまりにも多いので驚愕しました。確かに、社会に出てから嫌なことはたくさんあります。私も仕事をしていてもちろん嫌なことが色々あります。

 

しかし、社会に出てからの嫌なことというのは「生活のため」とか「給料のため」と割り切れるところはあります。また、そもそも「自分が本当にやりたいことのために必要だ」と納得できればまだ嫌なことでも割り切りができるのではないでしょうか?

 

一方、義務教育時代の嫌なことというのは、何のためにやっているのかが本当に分かりませんでした。

 

大人になってから履歴書に書くのは「〇〇高校卒業」「〇〇大学卒業」ということだけで、中学校の運動会の練習をサボったところでそんな記録はどこにも残りません。

 

大学に入ると、「単位さえ取れれば卒業できるから、必要単位を超える部分については特に頑張らなくて良い」という明確な線引きがあるのでまだマシなのですが、小中学校の理不尽さは尋常ではなく、「卒業に必要」という明確なモチベーションもないまま「何事も一生懸命にやらないと社会に出てから苦労します」という謎の脅迫をされ続けます。

 

もちろん先生も、子どもを不幸のどん底に陥れようと思って不安を煽っているのではなく、本当に心配して言っているのだと思います。しかし残念ながら、不安を煽る先生は社会のことを知らなさすぎるという印象です。

 

社会人の場合は職業や会社を選べますし、どうしても耐えられなければ転職という選択肢もあります。

 

一方小学生は簡単に転校することができません。住む場所についても親の仕事の都合に依存するので、好きな小学校へ入学してそこへ引っ越すという選択肢はありません。これは当たり前のことではなく、どちらかと言うと異常事態です。

 

私は、小さい頃から嫌いなことを我慢して頑張る習慣が身につくと、逆に自分が本当にやりたいことや好きなことを見つける力が失われ、本当に社会へ出てから苦労してしまうのではないでしょうか?

 

特に今の時代、得意なこと、好きなこと、稼げることさえ見つけられれば、嫌いなことや理不尽なことは避けて通れます。

 

やりたいことを見つけるというのは大変なことだからこそ、子ども達には「嫌いなことを我慢して頑張る習慣を身につけなさい」ではなく「本気で打ち込めることを見つけるのは大変なことだから、嫌いなことは無理をせず、本気で打ち込めるものを見つけてください」と伝えたいです。

 

回答3:学校教育を通じて協調性を身につけるべき

 

社会人になったら、嫌いな人とプライベートで関わる必要はありません。 嫌いな友人との関係は全員切ることができますし、極端なことを言えば親戚や親との関係も切ろうと思えばできます。近所付き合いが嫌なら引っ越しをする自由もあります。

 

仕事では確かに嫌いな人とも付き合わなければならないですし、チームワークも必要になります。しかし、仕事での人間関係というのはまず「この仕事を完成したい」というのが先にあって、そのために人を集めて協力するという順序ではないでしょうか?

 

職場での人間関係には利害関係があるので、必要とされる人であれば相手もあまり酷いことはできないはずです。もし職場で理不尽なことをされるのであれば転職を検討する自由がありますし、どうすれば転職市場で価値を上げられるか研究することもできます。

 

もし職場でイジメやパワハラを受けるのであれば、「どうすれば嫌いな職場の同僚と仲良くできるか?」を悩むよりも、「日本には何百万社も会社があり、世の中には転職している人も大勢いるのに、なぜ自分はこんなクソみたいな会社にしがみついているのか?」を考えた方が良いです。

 

本気で売上や利益を上げて成長している会社はイジメなんてしているほど暇ではないので、職場でイジメが発生するほど暇な会社にしがみついていても将来はないです。

 

嫌いな人と無理して付き合うことに慣れると、「本当に信頼できる人を見つける力(人を見抜く力)」が鈍くなります。

 

結局、学校行事はどう考える?

 

小さいうちに様々な経験して「これが好き」「これは嫌い」という感覚を掴めば、好きなことを見つけるのに役立つかもしれません。

 

従って、学校行事が無駄だとは全く思いません。

 

しかし、その学校行事が好きかどうかは感覚で分かることなので、嫌いだと分かっている学校行事まで一生懸命に取り組む必要はないと思います。

 

学芸会なども、一応参加して演劇に興味がなくて嫌いなことさえわかれば、あとは適当に手を抜いた方が良いと思いますし、嫌いだと確信したなら、欠席できるなら欠席で良いと思います。

以前働いていた会社の上司は「上司の言うことにNoと言ってはいけない」「お客様は神様」と強く信じていました。

 

その上司は外資コンサル出身でしたが、よく「お客様は神様なんだから、お客様のどんな要望にも応えるのがプロフッショナルだ」と言って、顧客からのどんな理不尽な要望でも深夜2~3時まで残業して応えていました。

 

しかし、その「プロフェッショナル精神」について詳しく聞いてみると、およそ本当にお客様を神様だと思っているとは感じられませんでした。

 

お客様の前では「お客様は神様です」と言っているもの、内輪ではお客さんの愚痴で盛り上がります。

 

新卒の頃からその上司の考え方には違和感があったものの、社会人経験も10年を超えた今、その違和感が確信に変わりました。

 

仕事ができる人ほど顧客や上司からの理不尽な要求にはハッキリとNoを突きつけますが、裏では顧客や上司を褒めます。

 

では、なぜ仕事のできない人は

「顧客の言うことを聞かなければならない」「上司の言うことにNoと言ってはいけない」

と思い込んでしまっているのでしょうか。

 

それは一言で言うと、逆説的ですが「プロフェッショナルとしての自信がないから」です。

 

自信がないから「お客様や上司に認められたい」「契約を切られるのが怖い」という不安な気持ちが生じ、自分の主張ができなくなってしまうのです。

 

自信があれば、理不尽な要求に反発して顧客から契約を切られても

「自分の良さを評価してくれる顧客は他にいるし、むしろ厄介な顧客に無駄な時間を割かれても効率が悪いから、契約を切られて本望だ」

と考えられますし、サラリーマンであれば

「こんな会社辞めて、もっと自分の良さを分かってくれる会社に移ってやる」

と思えます。

 

その余裕があるからこそ顧客に対して最高のサービスが提供できると思いますし、それこそがプロフェッショナルではないかと思います。

 

つまり、顧客や上司のどんな理不尽な要求にも応えるのがプロフェッショナルなのではなく、顧客や上司に対して自分の考えを誠実に伝えられるのがプロフェッショナルということです。

 

「お客様は神様」ではなく「私がお客様の神になる」という考え方です。

 

その前提には「自分はこの人に嫌われてもやっていける」という余裕が必要ですが、自分の仕事能力にら対して自信がなければ余裕はできません。

 

問題は、どうやってその自信をつけるのかです。

 

突出した能力を身につけるには、何でも人並みにできることより、苦手分野は人に任せて自分の得意分野に集中して能力を伸ばすことが大事かと思います。

 

今までの仕事の中で

・あまり頑張ってないのに周りから感謝されたこと

・一生懸命頑張ったのに評価されなかったこと

があると思いますが、前者が得意分野で後者が苦手分野です。

 

しかし自信がないと、周りから褒められても素直に受け取れず「私のことを褒めるなんて、何か別に目的があるはずだ」と勘ぐったりします。

 

そこで、逆説的ですが

「まずは理不尽な要求を断ってみる」

とから始める方が現実的かと思います。

 

たとえ自信がなくても上司や顧客からの理不尽な要求を断って良い、反抗して良い、と思うことかと思います。

 

「自信があるから上司や顧客に逆らえる」のではなく、「上司や顧客に逆らうから自信がつく」のではないでしょうか。

 

反抗する相手がプーチン大統領や習近平国家主席、金正恩委員長であれば話は別だと思いますが、日本のサラリーマンが顧客や上司の理不尽な要求を1回断っただけで人生が終了することはないと思います。

 

上司の側だって、部下に辞められたりしたら自分の評価が下がりますし、怖いはずです。

 

残業しない、行きたくない飲み会は断るなど。上司だけでなく部署全員に睨まれるかも知れません。

 

でも、それらを断ってもクビを切られなかったとき、「あぁ、反抗しても大丈夫なんだ」と少し社会人としての自信がつくのではないでしょうか。

 

顧客に反抗して契約を切られた場合は、「質の悪い客に自分の貴重な時間を取られなくて良かった」と開き直って、質の良い顧客を探すことに全力を尽くすべきではないでしょうか?

 

結局、自分を大切にできる人が顧客や上司のことも大切にできるからです。

私は東京生まれ東京育ちで、30年以上東京で暮らしてきました。

 

新宿・渋谷・上野や東京を始め、山手線の主要な駅は中学・高校からよく行っていたため、どの駅で降りても何かしら昔のことを思い出します。

 

30代になって大阪で生活するようになりました。

 

最近、健康に気を遣うようになり、ラーメンや牛丼、カレーよりも玄米ご飯の定食などを好んで食べるようになりました。

 

大阪を歩くと、梅田や難波の地下街やモールを始め、どこへ行ってもバランスの良い定食のお店がたくさんあるので、「大阪は何と暮らしいやすいんだろう」と思いました。

 

大阪で外食をするときは、無意識に自然食のお店などを選ぶようになります。

 

東京へ戻った時、大阪で通ったのと同じようなお店がないかどうか調べたところ、大抵のお店は東京でもチェーン展開していました(大阪にしか店舗展開していないお店もあります)。

 

場所を調べると、表参道や自由が丘、渋谷のヒカリエや上野のサクラテラスなど、オシャレな街やリア充の男女が行きそうな場所ばかりでした。

 

東京では新橋や有楽町のガード下のようなお店ばかり行きながら「東京は安いけど不健康な店しかない」とボヤいていたのでした。大阪で言うと、梅田の第1~第4ビルや難波の千日前にある居酒屋のような場所です。

 

大阪では土地勘がないので、梅田のグランフロントや阪急三番街、難波パークスやあべのハルカスなど、知らない間に小じゃれた場所へ行っていました。

 

東京では絶対に行かないような雰囲気の場所でした。

 

しかしいざ東京へ戻ってくると、1人でルミネやヒカリエへ行って1500円くらいの食事をする気はせず、長年の習慣でつい結局500円くらいのラーメン屋や牛丼屋へ行ってしまうので、習慣を変えるために環境を変えることも時には有効なんだな~と思いました。

 

自炊をすれば良いのですが、とても腰が重いので、最近料理教室に通い始めました。

私は以前から「炭水化物は白米より玄米、タンパク質は肉よりも魚・豆が良い」という知識を持っていました。

 

しかし、ラーメンやカレーや牛丼が大好きで、毎日のように中華定食を食べ、食後に罪悪感に襲われていました。

 

30代前半まで、毎日朝6時に家を出て深夜に帰宅する生活で、朝から晩まで働く中でお昼ご飯が平日は唯一の楽しみでした。

そんな昼食に玄米・豆腐サラダの定食なんて食べていたら精神的に午後を乗り切れないと感じていました。

 

もちろん糖と油の塊であるラーメンなんて食べたら昼食後に血糖値が急上昇して眠くなるし、健康に悪いのは間違いがないのですが、仕事の効率を上げて早く帰宅しようとすると追加の仕事が降ってくるブラックな職場体質(つまり実質的に最低でも月45時間の残業までが定時)だったので、昼食後に眠くなってダラダラ働いた方が仕事が楽だったのです。

 

なので、罪悪感を覚えつつも体に悪いものをたくさん食べていました。週末にはよくケーキバイキングへ行ったり、平日夜は帰りにアルコールとビーフジャーキーを買って帰ったり・・・という感じです。

 

しかし30代で転職し、現在ではフルリモートの完全裁量労働制で働いています。そして、コロナの感染状況を見ながらずっと日本全国を旅行しつつワーケーションを満喫しております。

 

そうすると、段取り良く仕事を片づけられればその分だけ旅行できる時間が増えるので、自然と仕事が効率化されます。

 

昼食後に眠くなるなんて論外で、最高のコンディションを保つ方法を追求することにワクワクするようになり、朝はヨーグルトとナッツのみ、昼は炭水化物なしでサラダチキンまたは鯖缶ときんぴらごぼう、切り干し大根、ひじき煮などを食べています。

 

夜も玄米ご飯が中心で、外食の場合にもそういうお店を探します(以前は全く興味がなく気付きませんでしたが、東京や大阪なら健康的なレストランがたくさんあります)。

 

生活リズムも改善され、最も張り切っている日には朝5時に起きて朝8時まで3時間だけ仕事し、昼間はスマホで対応できるメッセージや電話のみ対応しながら好きなところを観光し、また夕方の5時から夜9時まで仕事をします。

 

時には、伏見稲荷大社の山頂近くで顧客から緊急対応案件の電話がかかってきて、鳥居に腰かけてパソコンを開き、1時間くらい対応したこともあります。

 

通行人からは「こいつ何でこんなとこでリモートワークやってるんだ」という目で見られましたが、個人的には最高の思い出です。

 

人によってはプライベートの間は仕事のことを忘れたいと思うようですが、私はオフィスで仕事をするより大自然や神社仏閣で仕事をした方が気持ちが落ち着き冷静かつ効率的に対応できるので、プライベートの時間に仕事が飛び込んでくるのは大歓迎です。

 

仕事の効率を上げれば上げるほど旅行しやすくなるし、早く出かけたいのでワクワクして朝は早起きになるし、昼間あちこち歩きまわっているので夜はクタクタになってすぐ寝付きます。

 

以前、東京で朝6時台に家を出て夜11時ごろに帰宅していたころは、仕事で溜めてきたストレスを発散するために夜中の3時くらいまでYouTubeを見て、睡眠時間3時間程度のまま朝6時台に起床して朦朧とした頭で出社していました。

 

現職は前職に比べて転職時に給与が落ちましたが、幸福度が爆上がりしたので仕事のパフォーマンスが上がり、間もなく前職に追いつきそうです。

 

そして、ストレスが少ないので無駄な出費も減り、大好きな旅行をしながら生計を立てています。

 

ストレスフルな生活をしていた自分に「玄米の食事を食べろ」と言っても絶対に食べないし、罪悪感に駆り立てられるだけでした。

なので、ラーメンが食べたいなら罪悪感を持たずに思いっきりラーメンを食べればいいと思います。

 

健康を害して早死にするかも知れませんが、罪悪感から逃げるために無理して玄米食を食べたところで結局ストレスで早死にするのではないでしょうか。

 

昔、誰かに「自分のことを大切にしていくと、自然と健康に良いものを引き寄せるようになる」と聞いたことがあり、当時は意味不明だったのですが今はとても納得しています。

 

ジャンクフードを食べたい時には「ジャンクフードを食べても良い」と自分に許可を出すことが自分を大切にすることですから、一見遠回りなようで実は健康への近道かも知れません。

 

頭で考えた「健康に良いこと」よりも自分の感覚を大切にしていくと、段々と自分の感覚が研ぎ澄まされていき、自然と本当に身体に良いものが心地よく「美味しい」と感じるようになると思います。

 

自然にそう感じられない状況で、無理して健康に良いものを食べる必要はないと思います。

 

私は今でもまだまだラーメンやカレーを食べるのですが、最近は十六穀米や蒸し野菜の方が美味しいと感じるようになってきました。