私は昔から、人の言うことはそのまま信じてしまう傾向があります。
自分が、嘘だと分かっていることを言うのが気持ち悪い。
だから、他人もそうなんだろう、と信じていたのかもしれません。
人を疑うと疲れるし。

しかし人生終盤の近頃になって、ようやく
情報発信するには発信する側の都合がある
ということに、気づきました。

思えば、うちは毒親だったので、初めに受け取った情報がそもそも
親が子供をコントロールするための情報
でした。

たとえば、インターネットの普及と共に、情報商材業界が生まれましたが、
ここで発信している人たちは、自分が情報で商売したくて発信しています。

ユーチューバーなんかも、それで収入を得ようと思えば、
多くの観客を得て、回数を多くアップして、広告収入を増やさなければいけないらしい。

当たり前だけど、私の立場を理解して、私の為を思って情報を発信してくれる人はいません。
個人的な関係じゃないんだから。

商売として成り立たせるためには、
ー多くの人が関心を持ちそうな分野の情報
ーそれでいて、知らなかったと思わせるような情報
ーできれば繰り返し繰り返し購入してくれそうな情報
でないと、成り立ちません。

だから、ダイエット、お金、英会話、美容、老化防止の分野は山ほど情報ができるんですね。

これらは、最大公約数を対象に発信されているから、
私に必要な情報だとは限らない、どころか、大半はたぶん必要ありません。

なのに、どうして引っかかってしまうかと言えば、
「足りないマインド」があるから。

・有益な情報は私の外にある
・情報を得ないとチャンスを失っている
・社会は競争社会
・皆が共通のルールで戦っている
・社会に適応して勝ち残るには、情報は多いほど強い
・社会に共通の情報を知っていないと、社会から落ちこぼれる

こういった前提があるから。

でも実際には

・私にちょうどいい情報は私の中にある
・競争を降りることも不可能ではない
・ルールは共通ではない、なぜなら手持ちのカードも環境も千差万別だから
・時間には限りがあるから、使い方はよく考え選んだ方がいい
・重要な共通情報だと思ったものでも、消えていく情報が多い

自分の心で感じ、頭で考え、自分の方向を決めるのは、心と身体にゆとりがないとできないから、ちょっとしんどいことではあります。
だからお手軽に情報を得て解決しようと思うと、しくじります。

100%体験することが決まっていて重要なことなのに、タブーとして語られないテーマもあります。
たとえば「死」。

団塊世代が引退した近頃でこそ、生前整理とか、実際のノウハウについては情報が増えました。

でも、
・人は死ぬ前に何を思うのか
・その人にとって人生で大切なことはなんだったのか
・年老いていく過程で何を経験するのか
・その時、どんな気持ちになるのか

なんていう情報は、よくよく探さないとなかなか出てきません。

私はアラカン。両親が後期老齢者になってしばらく経ちます。

両親を見ていると、
・父は人生をとうに投げている
・母は年を重ねることから目をそむけている

ので、ああはなりなくないな、とつくづく思います。
人生の先輩を見ていると、先輩の経験(良くても悪くても)から学ぶことができるので、ありがたいと思います。

私はアダルトチルドレンです。
精神的には未熟で(と言っても経験していないものは経験がないのだから、本人の私には本当にはわかれないだろうけど)人のお世話をする精神的なゆとりは、本当はありません。

でも、幸いお友達になら、なれます。
そういう方法で、人や社会に関わることならできそうです。

育った家庭環境は選べないから、これはしょうがない。
でも、それで人生を諦めてしまうのは、もっと癪。
今からでも学べるものは学びたいし、できることはしたいと思います。



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