小角のブログ

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霊能開眼法・修験密教秘法・呪術

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人間の気は誰にでもある。それを使うのである。

金縛りの場合「身体」が動かぬ。しかし呼吸は出来るはずである。

落ち着いて

1.ゆっくり深呼吸する

2.落ち着いたらふかく息を吸う。
  息はお腹の下(へその下丹田)に吸い込むように。

3.家宅侵入している霊(人)に対して心の中で叫ぶ

  ポイントは投げつけるように

4.「去れ、出て行け」とありったけの怒り声で叫ぶのである。

  心で。声は出さなくても良いのである。
  ポイントは一緒に息を吐く事。 

こうすると霊にとってはいきなり「叩かれた」のと同様。
普通の人間がそういう事を出来ると思っていないので、不意をつかれて驚いて大概逃てゆく。

つまり同じ意識同士をぶつけるとう感じで、霊であっても「気」の攻撃はかなり有効であるのだ。

ただしやる側の人間が弱気では駄目である。

 

金縛りで、お題目を唱える方もおるが、実際に金縛りにあった時は、この気迫を投げるほうが、非常に効果的なのである。

 

 

生易しいお題目などでは、効かない事が多いのである。

 

 

死霊・生霊の悪影響を受けない為にも、日頃から気合いは必要である。

 

 

 

 

 

 

 

密教の十八道の結界法は少し煩雑であるため、 今回は不動明王法で用いられるものを紹介する。

 

手で影絵の「かに」を結ぶというか、 右手を手前に左手を奥に横に手の平を伸ばし、 親指の先だけを付ける。

 


この印を組んだ後、不動明王の火界呪を唱える。


回数は、三度、七度、二十一度、百八度のいずれか。


火界呪は、 「ノウマク サラバタタギャテイビャク サラバボッケイビャク サラバタ タラタ センダマカロシャダ ケン ギャキギャキ サラバビキンナン ウン タラタ カンマン 」


唱え方は、とにかく素早く、一気に唱えるべし。


この真言を唱えながら、 自分の周囲が燃え上がる炎で囲まれているのをイメージする事。

以上で、不動結界法が完成する。

 

この結界は非常に強力で、 一切の悪鬼や悪魔邪霊は近づくことはできない。
また咄嗟の時には「カン」と唱えるだけでも良いのである。

 

 

この火界呪というものは、 一切の世界を不動明王の聖なる火で包み込むものであり、 結界には最適の真言である。

 

三密観(さんみつかん)という修行法を紹介しよう。

蓮合中末少開。想掌中舌上心内各有きりく字。変成八葉白蓮華。上有あ字。変成月輪。上有うん字。変成五鈷金剛杵。各放光照身口意業中。由此加持力三業罪障悉皆消滅。如是観了毎処誦うん字三遍。うん十遍。身三、口四、意三。

(読み)
蓮華(のような)合掌をして中指の末を少し開く。想え。掌の中、舌の上、心内におのおのきりく字有り。変じて八葉の白蓮華となる。上にあ字有り。変じて月輪となる。上にうん字あり。変じて五鈷金剛杵となる。おのおの光を放って身口意業の中を照らす。此の加持力によって三業の罪障悉く皆な消滅す。かくの如く観じ了って処ごとにうん字三遍を誦せよ。うん十遍。身に三遍、口に四遍、意に三遍。

三密観のみで独立した観法である。

 

蓮の花の夜中に開く音は、スポータとも言われ、インド哲学では認識理論に関与する。一 般的には静かな夜中に、蕾が弾ける音が聞こえ、その瞬間に強い香りが辺りに漂う。実際にとても清浄な、時が止まるような 感覚に襲われたことがある。

 

蓮華合掌を用いるのにはそのような理由がある。身口意による煩悩の汚れを浄めるというのが三 密観の目的である。究極的には身口意の汚れと見るのは凡夫人間の見方であり、仏さまの目から見たならば汚れなどという相 対的なものはありえない。「浄める」というのは「汚れ」を浄めるのではなく、汚れとか清らかなどという相対的な見方を打
破することであると言える。

(1)掌の中(身)、舌の上(口)、心内(意)にきりく字をイメージする。
(2)そのきりく字が八葉の白い蓮華に変わるイメージをする。
(3)その白い蓮華の上にあ字があるイメージをする。
(4)そのあ字が月輪となるイメージをする。
(5)月輪の上にうん字があるイメージをする。
(6)そのうん字が五鈷金剛杵に変わるイメージをする。
(7)月輪と五鈷金剛杵がそれぞれ光を放つイメージをする。
(8)その光が身口意の業を照らすイメージをする。
(9)身口意の三業の罪障がその光の加持力で消滅するとイメージする。

(注意)
イメージの(5)から(6)にかけて五鈷金剛杵を月輪の中に出現させるイメージをなすのであるが、その時、五鈷金剛杵を 縦に立てるとか、横にとかいう口伝があるならそれは意味がない。縦になろうが横になろうがイメージの浮かぶままにまかせ ればよい。

 

大切なのは、オン バザラ チシュタ ウンという真言があるように、五鈷金剛杵をイメージの中で定着させるこ とである。

 

古来よりこの真言は「金剛よ、立て」と訳されてきたが、チシュタという語は「イメージの定着」という意味で用 いられる古代インド修辞学の重要なテクニカルタームである。「金剛よ、定着せよ」と訳したい箇所である。

 

イメージ(6) で現れた五鈷金剛杵は、揺れ動くイメージであってはならない。定着したイメージを作り出し、さらにイメージを強く堅くし、イメージと実体の区別を無くし、その五鈷金剛杵は空想ではなく、実体となって出現する。つまり創造されるのである。実は五鈷金剛杵だけではなく、(1)から(8)のイメージはどれもイメージで終わらず、現実のものとして創造されるのである。

 

真言宗の根本経典である『金剛頂経』の中で主人公に「創造主」という称号が与えられているが、それは密教の行を修する真言行者が「創造主」となることを意味している。すなわちイメージを実体化する力を持つのである。

 

三密観一つにしてもさらっと行ずることはできる。

しかしその裏には、これほど恐るべき教理がひかえているのである。一印 一明であってもおろそかにしてはならない。

 

一印一明の中のイメージを定着し、実体化をめざすことがいかに困難かは誰にも わかる。

 

逆に言えば、一印一明で悟りを求める修行ができるのである。