だとしたら、ちょっと待ってください。自分は“喫茶”と言ったのに、何故あなたはコーヒー関連のものを連想したのでしょうか?喫茶店でコーヒー・・・。よくよく考えてみると、おかしな感じがします。自分は本書を読んで、頭を殴られたような衝撃を感じました。
よくある喫茶店のメニューを見ると、緑茶や麦茶といった日本のお茶がありません。“グリーンティーラテ”や“ほうじ茶ラテ”はありますが、これらはあくまでも“ラテ”。西洋の飲み物がベースです。日本の喫茶店なのに、和のお茶はほとんど見られず、和風喫茶に行かないと本物の緑茶は飲めないのが常識になっています。
この原因は、アメリカからの日本の食料支配にあります。明治維新から始まったアメリカの「日本餌付け計画」は、かなり周到で根深いものでした。
“牛鍋食わぬは開けぬ奴”の福沢諭吉や森鴎外のような知識人を先兵として、パンや肉のような欧米食を広めさせました。時には天皇さえ、PRキャラクターとして使っています。
更に、テレビ及び、そのCMを洗脳装置として使い、“欧米食こそ至高”という意識を植えつけたのです。アメリカから来た、ハンバーガーやコーヒー☕️のチェーン店が、外食や喫茶の代表格となっている。これこそアメリカの食料支配の象徴です。
グローバル化と言えば聞こえは良いですが、それにより米やお茶の消費が減り、日本独特の文化が薄れているのも事実です。
これはかなり深刻な事態だと自分は考えています。『鋼の錬金術師』という漫画には、こんな名言があります。
「文化の死は民族の死だ」
衣食住の文化を海外から侵略されている日本民族は、殺されかけているのではないでしょうか?アメリカ人と全く同じ文化を持った日本人は、本当に“日本人”と呼べるのでしょうか?
「大げさだ」、「陰謀論くさい」と思われるかもしれませんが、本書を読むと、そう思わずにはいられなくなりました。
グローバル化や貿易は確かに大事です。日本特有の“和”の文化。和食や着物、武士道や富士山、自動車やアニメまで。海外の方達を魅了するものは多くあります。また、その逆もあります。
しかし、他者に合わせて変化し、媚びへつらうのが本当のコミュニケーションと言えるのでしょうか?他人に合わせて変化するばかりで、自己を通そうとしない人間は、信用されなくても仕方ありません。それは国家関係でも言えると思います。
己の文化を通しつつも、他者の文化を受け入れる。そんな高い対人能力が対人から国家レベルでも重要だと感じます。
