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ブロッギン・エッセイ~自由への散策~

アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド,ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば,水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬編『証言 水俣病』)

 前回記事で取り上げた飯山あかりさんは結局,衆院補選(東京15区)で落選だったわけだが,驚いたことに知名度がそこそこ高い乙武氏より上位の4位に食い込み,得票率は14%にも達した。前回も書いたように選挙活動を利用してヘイトスピーチをまき散らすという彼女の当初の目的は達成し,それなりの手ごたえを掴んだことだろう。落選したにせよ,この飯山を支持する人の数を得票数として実際に見せつけられることで,飯山に攻撃されるムスリムなどのマイノリティの人たちは大きなショックを受け,社会に対する信頼を失うに違いない。

 

 どうしてこういう露骨な差別主義者がこれほどの支持を得ているのか――いろいろな要因があると思うが,前回は「対抗言論」の弱さを指摘した。すなわち,ヘイトスピーチを規制する法制度を整備することのほかに,有力政治家やオピニオンリーダーが「差別は許されない」ともっと発信していくことがヘイトスピーチ対策として効果を持つはずだが,そういう対抗言論が日本ではまだまだ弱い。だから飯山のように路上やネットで堂々とイスラモフォビアをまくし立てることができるのだ。

 

 例えばバイデン大統領のように,ヘイトクライムが起きた現場に自らが行って被害者への連帯を表明するなど,日本の指導者的地位にある人たちがもっと積極的に対抗言論を展開すれば,今の排外的な空気を多少は変えられるのではないかと思う。また,山口祐二郎氏らが実践しているような「反差別カウンター」の運動がもっと広がれば,ヘイトスピーチの抑制に一定の効果を持つだろう。

ネット右翼vs.反差別カウンター 愛国とは日本の負の歴史を背負うことだ (モナド新書)

 

 だが,そういった一部の政治エリートや運動家に頼るだけでは,この排外的な言論・社会状況は根本的には変えられないのではないか,と思う。やはり私は,ヘイトスピーチなどの排外的・差別的言語に対抗し,真に公正で開かれた言論空間を作っていくには,教養主義を再興するしかないんじゃないかと思っている。もちろん教養がすべてを解決することはないにしても,少なくとも教養のバックボーンがなくては,フェイク・ニュースやデマに彩られた今の言論状況を批判的にとらえることは難しいだろう。とりわけ人文社会知の有無が重要なカギになる。

 

 教養主義とは「読書を通じた人格形成や社会改革」の規範や態度を指す。大正期から1960年代にかけて,「文学・思想・哲学等の読書を通じて真実を模索し,人格を磨いていかなければならない」という価値規範が,旧制高校や大学に通う学生エリートだけでなく,広く若者を中心に社会に共有されていた。そういった「大衆教養主義」が戦後なぜ盛り上がり,またなぜ退潮したのかが,掲題の福間良明氏の著作で詳しく検討されている。

 

 「実利を超えた読書や教養」が,学生や知識人だけでなく,広くノンエリートの働く若者たちにも浸透していた時代というのは,今から見ると,まさに隔世の感がするだろう。というのも,現代は読書や教養よりも圧倒的に職業的な実利やコスパを優先する時代だからである。だからこそ,現代の状況を批判的にとらえる上で,戦後の教養文化の時代(敗戦~1960年代)を知ることは非常に重要だ。教養文化の喪失が,フェイクやヘイトスピーチにまみれる現代の言論空間を直接・間接に生み出してしまったように私には思えるからである。

 

 知的な議論や史実・事実を踏まえて理性的に考察しなければならないという価値規範は,今ではほんの一部の知識人層にしか共有されていない。知的なものを吸収し,独善的でない公的な議論をしようという思考態度は,今のネット時代に一般大衆の中ではほぼ消失してしまったといってよいだろう。代わってスマホやタブレットで手軽に情報を集め,根拠のないフェイク・ニュースやデマを事実と思い込んでSNSに発信するというのが,現代人の一般的な言動パターンであろう。

 

 そのように知性や教養からは程遠い状況だから,飯山あかりのイスラモフォビア(イスラム嫌悪)にまみれたトンデモ本が売れるのだろうし,

ハマス・パレスチナ・イスラエル-ーメディアが隠す事実 (扶桑社BOOKS新書)

そういうムスリム差別の流れと軌を一にするかのように日本の大学ではイスラエルのガザ攻撃に対して目立った抗議運動が起きない。歴史的に見て最大規模のジェノサイドが起こっているにもかかわらずキャンパスに抗議や怒りの声が渦巻かないのは,教養主義の衰退と決して無関係ではないと思う。また,カイロ大卒業と言い張っているが知性の欠片も見られない小池百合子が東京都知事をのうのうと続けてこられてたのは,教養主義の没落を顕著に示す政治現象であろう。まあ,とにかく浅はかで短絡的・一元的な思考しかできない飯山あかりや小池百合子のようなレイシストが,反教養主義というか反知性主義,あるいはポスト・トゥルースと言われる時代の代表的人物といえるのだろう。

 

 私がよく戦後民主主義の復権を語るのも,その土台に大衆教養主義があるからである。人々の教養主義的な価値観や生活態度が戦後民主主義の運動や文化を支えていたのである。掲題の本によれば,勤労青年たちの自発的な活動や学習の場である地域の青年団や青年学級が,戦後の大衆教養主義を下支えしていたことが指摘されている。特に農村において,こうした教養文化は広まっていた。

 

 こうしたなか,一九五〇年代前半から半ばにかけて,農村では勤労青年の教養文化が盛り上がりを見せた。青年団・青年学級主催の弁論大会もさかんに行われ,長野県岡谷市川岸地区の青年団では,一九五〇年代初頭には弁論大会で三〇〇人近くを集めていた。そこでは,読書の意義も多く語られた。松本市内の青年団では,ある女性団員が「私の云ひたいことは良書を多く読むことによつて,自分の人間性を養ふことだと思ひます」「人生を卑屈に見ることなく,良い社会を作り私達が明るく暮らせる様にするためにお互いにもっと ゝ 勉強すべきだと思ひます」と語っていた。読書を通じた人格陶冶と社会改良という,教養主義の価値規範がうかがえる。…

 社会科学への関心も,少なからず見られた。静岡県浜松市の青年学級では,一九六三年に「民主主義の歴史や発達」「原子力の産業利用」「経済協力開発機構」等をテーマとした講演会が行われていた。長野県連合青年団による第二回郷土振興大会(一九五三年三月)では,「再軍備反対,平和憲法を守れ」「青年はいかに平和運動を推進すべきか」といった点について議論がなされていた。

(福間良明『「勤労青年」の教養文化史』岩波新書p.37~p.38)

「勤労青年」の教養文化史 (岩波新書)

 

 本書には,こういった当時の教養文化を生きた人々の生の声や教養主義をめぐるさまざまなデータがたくさん紹介されていて,当時の若者たちがいかに読書や教養に飢え,実利を超えた社会や世界の動きに熱い関心を持っていたかが伝わってくる。例えば本書には,1947年に岩波書店から刊行された『西田幾多郎全集』を求めて,人々が徹夜をして並んでいたことが紹介されている。教養文化の時代を物語る象徴的なエピソードである。

 

一九四七年七月に岩波書店から『西田幾多郎全集』が刊行されると,人々は同社社屋を取り囲んで長蛇の列を作り,二晩徹夜する者も少なくなかったという。…西田幾多郎の難解な哲学を理解できなくとも,それに接したいという人々の教養への憧れを読み取ることができよう。戦没学徒遺稿集の『はるかなる山河に』(1947年)や『きけわだつみのこえ』(一九四九年)がベストセラーになったのも,同様の背景によるものである。教養主義への憧れは,ノンエリート層にも一定の広がりを見せていたのである。 (同書p.42~p.43)

 

 哲学書を求めて徹夜で並ぶなんてことは今では考えられない現象だが,似たような現象があるとすれば,任天堂のゲーム機やアップルiPhoneの新機種を買い求める群衆であろうか。といっても,ゲーム機や携帯電話を真っ先に欲しがる群衆は教養主義とは無関係である。80年代にニュー・アカデミズムのブームがあったが,あれは一時期,一部エリートの間で起きた流行にすぎず,大衆的な広がりを持つものではなかった。
 

 それにしても,食料や生活物資さえ不足していた時代に,安価とはいえない哲学書を求める人々の心性とはいかなるものだったか。一言で言えば,教養への憧れ・渇望が人々を突き動かしていたということだろう。読書や教養,社会批判は,食料や生活必需品と同じくらい,生きていくのに必要だったのである。

 

 私としては,教養に憧れ,読書に渇望し,社会改良を志向する人々が地域や職場などに多くいて,活発に議論がなされていた教養主義の時代に憧れを抱くわけである。というより,今の時代に何とか教養主義を再生できないかと考えている。そのことは以前から書いてきたことだが,掲題の本を読んで,その思いを一層強くした。ヘイトスピーチやフェイク・ニュースがはびこる現代の社会状況を批判し克服するためには,教養文化の復興しかない。だから誰からも共感されなくとも,時代錯誤と言われようと,寺山修司風に何度でも言おう――

 

 スマホを捨てよ,書物へ還ろう!

 

 前回記事の最後で取り上げた飯山あかりさんだが,その選挙ヘイトがあまりにも酷くて許し難いので,今回も取り上げることにした。

 

 2016年のヘイトスピーチ解消法の制定以降,露骨なヘイトデモやヘイト街宣は減少傾向にあるようだが,その分,批判を受けにくい狡猾なヘイトスピーチが増えているように見える。象徴的なのが,選挙活動を隠れ蓑にしてヘイトスピーチを拡散する手法だ(選挙ヘイト)。いわばヘイトの「政治化」とも呼べる現象で,「表現の自由」や選挙妨害との絡みでなかなか批判しにくい面がある。だが,「表現の自由」は《差別の自由》ではないことは大前提として認識し,断固抗議すべき事案だろう。

 

 たぶん飯山あかりは今回の衆院補選(東京15区)で当選することは二の次で,選挙活動を通じてヘイトスピーチをまき散らすことを第一の目的としているものと思われる。特に彼女の十八番はイスラモフォビア(イスラム憎悪・恐怖)であり,上の動画ではクルド人に対する差別煽動を,日本保守党の政治活動・選挙活動という建前で執拗に繰り返している。選挙活動であれば「表現の自由」が普段より一層尊重されることを逆手に取って,白昼堂々ヘイトスピーチをやっているわけである。

 

 『ヘイトクライムとは何か』(角川新書)には,在特会の桜井誠元会長が都知事選に出たときのことが詳しく書かれているが,今回の飯山あかりの立候補について考える上で参考になる。

 

 立候補者の発言への批判が選挙妨害とみなされれば,公職選挙法違反となるため,批判を受けにくいことを念頭に置いているとみられる。当選するためではなく,ヘイトスピーチを展開するための選挙戦という性質が強い。

 この都知事選で桜井は落選したものの,投票者の一・七%にあたる一一万票を超える票を獲得した。この結果に手応えを感じたのだろう。桜井は自身が党首となり,排外主義を主張する政治団体「日本第一党」を結成し,二〇一七年の東京都議選から活動を本格化させる。 (同書p.211)

 

 ヘイトスピーチを展開する候補がたとえ落選したとしても,それを支持する人の数が得票数で示されてしまう。それによって,マイノリティーの市民は,打撃を受け,社会に対する信頼感を失う。 (同書p.212)

 

 

 今回の飯山あかりも,まさにヘイトスピーチを展開するために立候補したといっていいだろう。特にクルド人をはじめムスリムを日本社会から排除・追放するための宣伝戦,思想戦を彼女は選挙を通じて私たちに仕掛けてきているのである。

 

 「この国は日本人のもの」であることを殊更強調したり,イスラームに対する憎しみや恐怖を煽ったりする演説は,聞く者の自己肯定感や優越感を刺激して,ウケはよいのかもしれない。だが,どんなに聞き心地はよくても,その根っこに差別と排除がある限り,多様性のある社会を築くことはできないだろう。飯山のような選挙ヘイトを黙認・放置するならば,群衆を巻き込んで排他的で暴力を容認する社会に向かっていくに違いない。差別の煽動は暴力の容認,さらには大量虐殺(ジェノサイド)へと連動していくからだ。

 

 選挙ヘイトについては,安田菜津紀さんが次のように述べている。実体験としてヘイトスピーチの被害を受けてきた人だけに,言葉に重みがある。

 

この社会はすでに多様であり,複数のルーツを持つ人や,日本国籍を有していないことによって,投票による意思表示ができない人々も共に生きている。ヘイトの矛先は執拗にそうした人々に向けられ,大音量でまき散らされる凶器のような言葉は,日ごろ利用する駅前や生活空間まで容赦なく追いかけてくる。何度でも言おう。「言論の自由」は「差別の自由」ではない。この国は選挙を「抜け道」扱いするヘイトを,いつまで放置するのか。

 

 飯山のヘイトスピーチを聞いていると,まさに言葉は凶器であることを実感するわけである。安田さんが問いかけるように,この国はこういう選挙を抜け道にしたヘイトスピーチをいつまで放置し続けるつもりなのか。直ちに規制してやめさせるべきだろう。選挙運動であろうが政治的意見であろうが,特定の属性の人々の尊厳を傷つけ,差別を煽動する演説はヘイトスピーチにほかならない。刑事規制できるように法改正すべきだ。先にも述べた通り,差別を黙認する社会は暴力を容認する社会と地続きだ。ヘイトスピーチは容易にヘイトクライムにつながり,その先には戦争とジェノサイドが待っている。そのことを私たちは歴史から痛いほど学んできたはずだ。だから,飯山あかりと日本保守党を野放しにしてはいけないのである。

 

 私は何年も前から飯山あかりのイスラモフォビアを批判してきたが,今回の立候補と選挙ヘイトを許してしまったことは,無名ゆえの力不足を思わざるを得ない。と同時に,この国の「対抗言論」の弱さも感じる。有力政治家や言論リーダーがもっとヘイトスピーチを「許さない」と発信することが,法律や条例の整備とともに必要であろう。

 

 安田さんにならって,私も何度でも言おう――

 「表現の自由」は「差別の自由」ではない!

 飯山あかりのイスラモフォビアを許すな!選挙ヘイトを許すな!

 前回は「国家独占資本主義」という,ちょっと古めかしい概念を持ち出してアベノミクスを総括したのだが,古いからといって役に立たないとは限らない。古かろうが最先端だろうが,理性的思考と批判的精神を深め進化させていくのに必要であれば使っていくべきだろう。その意味で,30年近く前に書かれた故・今村仁司の群衆論は非常に面白い。全く古くなっていない。これを読んで,「群衆」は現代をとらえるうえで決定的に重要な概念だと確信した。今村の群衆論はこれまであまり注目されてこなかったように思うが,たぶんこれは今村の最高傑作ではないかと思う。

 

 今村は近代社会の実体もしくは根源として群衆を見ている。

 

近代の歴史は,とりわけ十九世紀以降の歴史は,群衆の歴史といっても言い過ぎではないでしょう。・・・近代社会で経験的実体にあたるものは群衆しかないでしょう。

 

近代社会は生誕と同時に,自律的個人の理想を掲げながら,同時にその理想的個人を否定し呑み込む巨大な近代群衆をも生み出してしまう。そして,近代社会は自分が生み出してしまった群衆を自分ではどうにもできない,そうしたジレンマに陥ります。

(今村仁司『群衆——モンスターの誕生』ちくま新書p.8,p.10,p.148)

 

 ところで,群衆と似た言葉に「民衆」がある。民衆という観念は理想主義的なもので,すなわち個人の自覚を持ち,自律して合理的な生活を営む人々の総称であった。民主主義は,こういう民衆の理念を基本に考えられた仕組みである。ところが,こうした民衆が消滅していくのが近代の大きな傾向なのだと今村は言う。

 

群衆が民衆を呑み込み解体し,あらゆる個人をの一部にしていきます。こうした人間の塊は民衆の理念からかぎりなく遠いものです。

(同書p.151)

 

 群衆とは,このように民衆を解体してできた個別的差異のない「人間の塊」「人間の群れ」を指す。では,「大衆」はどうか。大衆なるものも所詮は群衆(=「人間の塊」)にすぎない。「大衆民主主義」と肯定的によばれるものは,実は群衆による民主主義なのだ。大衆民主主義=群衆民主主義は,トクヴィルによって「多数者の専制」として特徴づけられるものだ。トクヴィルの言う「多数者」とは群衆=「人間の巨大な塊」にほかならない。大衆(群衆)民主主義は,このような個人的な差異が消滅した「人間の塊」によって行われる専制政治なのである。つまり,群衆はデスポティズム(専制政治)を生む。トクヴィルが大衆民主主義を「民主主義的デスポティズム」と呼ぶゆえんである。

 

 一方で,群衆をプロレタリアート(労働者階級)として鍛え直そうとするマルクスは,「プロレタリア独裁」を提唱する。

 

 トクヴィルとマルクスが群衆から導き出した「民主主義的デスポティズム」と「プロレタリア独裁」は,20世紀に「全体主義国家」として現実のものとなった。全体主義国家とは,群衆的なデスポティズムであり,群衆的な独裁国家である。このような群衆国家では,「人間の塊」として情念の同質性が基調とされるから,それに同調しない他者や異者は次々と差別され排除されていく。大切な点は,専制や独裁が群衆を作り出すのではないということである。群衆が専制や独裁を生むのである。

 

地球上のあらゆる地域で,ナショナリスト群衆が自らの胎内から「指導者」を産出し,両者が提携して「全体主義国家」を作り出してしまいました。

(同書p.185)

 

 ここで言う「指導者」とは,例えばイタリアのムッソリーニ,ドイツのヒトラー,ソ連のスターリンである。こうした指導者=独裁者は,民衆という自律的な諸個人によって選ばれた代表者ではなく,群衆という名の「畜群」から生み出された「群れの番人」である。

 

 改めて近代の群衆を定義してみると,どうなるか。今村は次のように言っている。
 

群衆はあらゆる人間の個別的差異がすべて溶けて消え去る場所である。

(同書p.187)

 

 これは,近代群衆の本質を最もよく表したセンテンスであろう。では,そもそもこのような近代群衆はどのようにして生まれてくるのか。今村によれば,それは資本主義との内面的な結びつきにおいて生まれてきた。近代群衆は資本主義的市場経済なしにはあり得なかったのである。

 

 それでは,市場経済とは何か。今村によると,

 

市場とは異質存在を等質存在に変換する装置である。・・・価値形式あるいはそれの実現空間としての市場は,万物の差異の焼却場であり,万物の等質化装置ないし機構なのである。

(同書p.186~p.187)

 

 市場化と群衆化は連係しながら,人間たちを個別的差異の消えた等質的な存在に変えていき,情念的にべとべとした「もち団子」的な共同体=群衆国家の形成に導いていく。先ほども述べたように,同質的な情念を持った群衆に支えられた国家は,マイノリティや異端者,外国人などを差別し排除する。このような群衆国家は,ナチズムのように,虚構の人種や民族を作り出して,その「最終解決」として絶滅作戦を実行することさえあり得る。

 

 さて,ここでアベノミクスについてもう一度考えてみよう。すなわちアベノミクスとは,国家と大資本が結託して労働者を支配し搾取する国家独占資本主義の下で採られた経済政策であった。群衆という観点からみれば,アベノミクスの下で国家への同一化とナショナリスト群衆の形成が進んだと言ってよい。アベノミクスの時期を思い起こしてみるとわかりやすい。それは,安倍信者のネトウヨたちによって「嫌韓・反中」の偏ったナショナリズムが異常な高まりを見せた時期であった。

 

 そういうナショナリスト的な群衆を生み出したのは,構造改革とか規制緩和といった市場経済化の徹底(=新自由主義)であったといえる。社会のあらゆる領域が価値形式(商品・貨幣・資本の形式)に支配されることで,等質的な情念を持った群衆が形成されていった。等質群衆は指導者を求め,それを内部から生み出すと同時に,その指導者にこぞって皆が同一化することで互いの同質性を確認し合う。安倍はそういう群衆の指導者として立ち現れてきたのであった。

 

 アベノミクスは,実は群衆が生み出し,群衆が支えてきた政策だったわけである。こうしたアベノミクス群衆は,安倍が死んだ今でもまだ死んでいない。むしろ活発に蠢いているといってよい。

 

 例えば,偽イスラーム学者の飯山陽(アカリ)が今度の東京15区補選に立候補できたのもアベノミクス群衆の支持があったからである。イスラームに対する恐怖や嫌悪を潜在的に抱えていたナショナリスト群衆が,自らの胎内から飯山陽という反イスラームのモンスターを生み出したのである。こういう人物が安倍のように群衆の指導者として政治家になれば,いよいよこの国は全体主義国家に近づいていくことになる。イスラモフォビア(イスラム嫌悪・恐怖)という等質的な情念が人々を覆い,それに同調しない者たちは差別され追放されていく。そして最終的にはナチズムのように外国人や異教徒,障害者,病者などに対して「絶滅作戦」が実行されるであろう。

 

 飯山の所属する日本保守党は結成まもない札つきの半グレ政党とは言え,決して侮れないのは,背後にアベノミクス群衆が控えているからである。だからこそ今度の補選で,アベノミクス群衆もろとも叩きつぶしてしまわなければならないのである…