金子勝『平成経済 衰退の本質』(岩波新書) | ブロッギン敗北【ご愛読ありがとうございました】

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アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド、ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば、水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬)
そして21世紀のいま、史上最悪のジェノサイドがパレスチナの地で、殺人国家イスラエルによって遂行されている…

 掲題の本は,タイトルに「平成経済」とあるように,平成時代(1989~2018年)の日本経済を論じたもので,出版されたのはまだコロナ禍もウクライナ戦争も起こる前の2019年3月である。だから,現在の私たちにとって喫緊の課題であるインフレについては直接には触れられていない。にもかかわらず,今日なぜこの本を取り上げたかというと,最近になってたまたま私が読んだからというのもあるが,今年の「戦後80年」を考えるうえで重要な観点が示されていると思ったからである。本書は単に平成時代の日本経済を分析・解説した経済書というよりは,もっと射程の長い戦後日本の政治経済を批判的に総括した書物として位置づけられるのではないかと思う。すなわち本書は戦後日本のあり方そのものを問うている。

 

 本書には「無責任の体系」とか「無責任体制」といった用語が何度となく出てきて,本書を読み解く上でのキーワードになっているが,これはもともと丸山眞男が戦前日本における意思決定の特徴を言い表すのに使った言葉である。本書で金子さんが強調するのは,戦後も官民のリーダーたちが自らの責任を曖昧化し,失敗の原因を隠ぺいしようという無責任体質が露わとなり,戦前の無責任体制は戦後も続いているということであった。そして,その無責任体制の行き着いた先が,第二次安倍政権の経済政策=アベノミクスであったというのが本書の結論である。

 

戦後,アメリカによって戦争責任を免罪されて成立した自民党政治は,アメリカの援助と市場開放の下で,高度成長を実現してきた。それが,一九九〇年代のバブル崩壊に伴う不良債権問題でも二〇一一年の東日本大震災で発生した福島第一原発事故でも,官民のリーダーたちの経営責任も監督責任も問えない戦後の「無責任の体系」となって表出した。失敗の責任を曖昧にし,当面もたせればいいという姿勢が,ついにアベノミクスに行き着いた。貯金の食い潰しは借金漬けで行けるところまで行くという無展望な政策へと突き進んでいったのである。それが「失われた三〇年」となって現れている。

(金子勝『平成経済 衰退の本質』岩波新書p.194)

 

 金子さんの分析が深く鋭いのは,こうした戦後の無責任体制が「新自由主義」と結びついていることを明らかにした点である。

 

実は「新自由主義」が,「無責任の体系」と親和性を持っていたのである。すべては市場原理が決めるという論理は,何もしない「不作為の無責任」を正当化してくれる。失敗しても,それはあくまでも市場(という自動調整メカニズム)の働きの結果であり,自己責任ですまされる。責任を問われるべき経営者や監督官庁にとって,これほど都合のよい政策イデオロギーはなかった。そして,周回遅れの「新自由主義」は取り返しのつかない格差社会を産み落としてしまった。政策の結果,格差が拡大して貧困に陥っても,それも自己責任なのである。

(同書p.94~p.95)

 

 

 さらに戦後の無責任体制は,戦争責任などなかったことにしようという「歴史修正主義」によって補強された。「歴史修正主義」は安倍政権の誕生とともに公然と語られるようになった。

 

戦争責任を曖昧にして成立した戦後自民党政治は,不良債権問題でも原発事故でも無責任体質を露呈させたあげくに,ついに歴史的事実を書き換える公然たる「歴史修正主義」を掲げる安倍政権を再度登場させた。戦争責任もなかったことにしようというのである。しかも,いまや修正するのは歴史的事実だけではない。どんなに閣僚が不正腐敗を行っても政策に失敗しても。公文書や政府統計を改竄してごまかすようになっている。

(同書p.195)

 

 アメリカさんから戦争責任を免除されて始まった戦後の無責任体制は,このような「新自由主義」と「歴史修正主義」を車の両輪として,「平成」という時代も生き延び,今も健在である。このように,いわば絶望的な戦後史を描く金子さんが見る日本の現在地は,次のようなラディカルなものであった。私としてはこの発言に深い共感を覚えずにはいられなかった。

 

「平成」という時代を経て,いまや戦後を一からやり直さなければならない地点に立たされているのである。

(同書p.42)

 

 冒頭で私は戦後80年を考えるにあたって本書は重要だと書いたが,それはこういう意味なのである。つまり私たちは戦後80年を迎えるにあたって,「戦後を一からやり直さなければならない地点に立たされている」という認識を持つことが重要だということである。今年の戦後80年は,本当の意味で「戦後」の始まりの年としなければいけないと,本書を読んで私は痛感したわけである。

 

 そこで「戦後」の第一歩として,日本政府は民間人の空襲被害者への補償を始めるべきだろう。イギリスやフランス,ドイツ,イタリアなどのヨーロッパ諸国では民間人の戦災補償は当たり前のこととして定着している。日本政府が戦争責任と正面から向き合い,「戦後」を本気で一からやり直すつもりであれば,民間の戦災者を法律で救済することは必須の条件であろう。日本の国家が始めた戦争で心身に障害を負った民間被害者を補償し救済するのは,国家として当然の義務だ。

 

 だが与党・自民党内にはいまだに反対論が根強いという。その理由としては,こうした救済法の成立がほかの補償問題に波及するのを恐れているのと,もう一つ,もっと根本的には,国家の戦争責任を認めることは敗北だという軍人的心性が自民党右派には根強く残っている点も挙げられるだろう。一方で戦後,軍人・軍属らには恩給や年金で補償を進め,しかも戦後80年の今年は,遺族に10年に一度の特別弔慰金を支払う法案を今回も政府は国会に提出した。ちなみに,軍人の中でも補償に格差があり,階級が高いほど恩給が高くなっている。階級が高い軍人ほど戦争責任が重いにもかかわらず,だ。

 

 このような「軍民格差」「軍内階級差別」を強いる政府の姿勢からは,先の戦争についての反省や責任は一ミリも感じられず,むしろ戦争責任そのものをなかったことにしようという悪意さえ感じ取れる。戦後を一からやり直すためにも,民間被害者救済法を作って戦後補償の軍民格差を解消するとともに,こういう無責任極まりない自民党政治は終わりにしなければならない…