フランス総選挙と東京都知事選~パリの解放,東京の凋落~ | ブロッギン・エッセイ~自由への散策~

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アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド,ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば,水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬編『証言 水俣病』)

 前回紹介した朝堂院大覚という人の「小池百合子を選んだ都民,国民が悪い」という発言に私が共感したのは,その指摘が日本の政治・社会の核心を素朴に言い当てていると思うからだ。そのことは,ヨーロッパの言論や運動と比較してみると,はっきりするのではないか。過日のヨーロッパ議会選挙で極右政党が躍進したことは,それに動揺してヨーロッパ諸国の株価が下落するなど,世界の各方面にショックを与えている。だが,震源地のフランスでは良識ある市民が立ち上がって,極右の台頭に対して有効な対抗言論や反差別運動を展開している。そして,マクロンが不利な情勢にもかかわらず,国民の意思を問うために総選挙に打って出たことで,左派も結束を固め,「新・人民戦線」を結成した。そのあたりが日本の市民,国民との決定的な違いだなと思うわけである。

 

 

 例えば,「21世紀の資本」で知られる経済学者のピケティが上のような演説をしているのを見ると,日本の知識人との差に愕然とする。すなわち,彼はスピーチで経済学者としての冷静な分析やアドバイスを聴衆に伝えるだけでなく,社会の不合理や不平等に対する怒りや危機感,闘争心を市民・大衆と共有しているのである。だから聴衆の共感を呼ぶ。怒りや闘争を媒介にして知識人と市民がつながっているのだ。

 

 市民の立場を代表する下の高校生の演説も聴衆に感銘を与えるものだ。この高校生も怒っている。「カナキーを,パレスチナを忘れるな!」と。

 

我々がやれることは,

街頭に繰り出し,投票になだれ込み,

レイシスト,反ユダヤ主義者,イスラム嫌悪主義者を打ち負かすんだ!

これが人民戦線だ!

 

 こうしたフランス左派の動きを見ていると,やはりフランスは日本とは格が違うなと思うわけである。社会のベースに知性や教養がある。それを基盤に言論や運動が成り立っている。一方,与党自民党や現都知事を強く批判しただけで,「もうウンザリだ」としてメディアから叩かれる日本社会。「批判」という,民主主義や言論の自由にとって最も大切な行為を頭から否定し貶める社会で,民主主義や自由な言論が成立するはずもない。

 

 先日は,人気バンド(ミセス・グリーン・アップル)の新曲「コロンブス」のMVが植民地主義や人種主義を肯定的に表現するものとして批判を浴びたが,これも歴史に対する無知や無理解が招いた事態といえよう。この一件は奴隷制や虐殺を肯定しようという明確な意図に基づいていたというよりは,そういう「負の歴史」に目を背け続けてきた昨今の日本社会全体の流れの中で起こった一つの事象であるように思える。日本政府や東京都をはじめ行政権力は関東大震災時の朝鮮人虐殺を公式には認めず,目を逸らし続けてきた。ましてや小池都知事は虐殺をなかったことにすることさえ目論んでいる。権力者や政治リーダーたちのこうした姿勢が,歴史への人々の理解を妨げ,歪んだ歴史認識を生む。安倍元首相や石原元都知事,小池都知事らの歴史修正主義が直接,今回のMV事件を招いたとは言わないが,決して無関係だったとは言えないだろう。歴史修正主義的な見方や思考法は,若い人たちを中心に少なからず日本人の歴史認識に影響を及ぼしている。「負の歴史」に目を向けない歴史修正主義が社会全体に広まっている日本の状況は,市民や知識人が「新しい人民戦線」として連帯し,歴史修正主義やレイシズムと闘おうとしているフランスの状況と比べて,雲泥の差で劣化しているといえよう。日本社会の無知や無教養が際立っている。

 

 たかが音楽のバンドというなかれ。サッカー・フランス代表のエース,エムバペは,ヨーロッパ選手権の初戦前日に「総選挙は試合よりも大切だ」という趣旨のことを述べた。日本でこんなことを言えるトッププレイヤーや人気ミュージシャンはいるか!ここにも知と教養を土台にしたフランス社会と,そうでない日本社会との落差は鮮明である。


 

 エムバペが言うように,極右は分断を引き起こす。そして多様性と寛容,人権尊重こそフランスの価値観だ。その価値観は日本でも受け継ぎたい。その意味で,フランス総選挙と同日に行われる東京都知事選挙も重要だ。都知事選の立候補者で極右が誰かは明らかだろう。これまでに分断・格差・パラレルワールドを生み出してきたのは誰なのかを私たちは知っている。

 

東京東京東京東京東京東京

東京東京東京東京東京東京

東京東京東京東京東京東京

東京東京東京東京東京東京

東京東京東京東京東京東京

東京東京東京東京東京東京

東京東京東京東京東京東京
 

書けば書くほど恋しくなる。

 (寺山修司『誰か故郷を想はざる』)

 

 こう東京への憧れをつづったのは少年時代の寺山修司であった。昔の革新都政がすべて良かったとは思わないが,かつて東京は地方の多くの若者が憧れや希望を抱く大都会であった。様々な人や文化が混じり合い,何か新しいものが生まれる予感がそこには充ちていた。寺山は東京に出てきてからも青森弁を手放さず,青森訛りで話し続けた。その頃の心情を,

 ふるさとの訛りなくせし友といてモカ珈琲はかくまで苦し

と詠んでいる。さらに遡って石川啄木もまた

 ふるさとの訛なつかし

 停車場の人ごみの中に

 そを聞きにゆく

と,故郷をも包摂した東京の多言語社会,多文化性を詠んだ。

 

 このような文芸作品が東京から生まれることはもうない。街じゅうに排除アート,意地悪ベンチがあふれ,都庁壁面には公権力を象徴するような似非アートがでかでかと光を放つ。だが,影の部分に光を当てるのが本来のアートであろう。光の部分に光を当てても何も生まれやしない。多様性や自由な批判精神のないところに新しい価値やアートは生まれてこない。グローバル資本主義が席巻し,新自由主義的価値観一色に染まった一元的で非寛容な今の東京に,かつてのような憧れや希望を抱く若者はいるだろうか。もう東京に夢はない。東京は一度,滅びた方がよいのかもしれない…

 

 東京東京東京……書けば書くほど反吐が出る。