「地球村の住人」 | ブロッギン・エッセイ~自由への散策~

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アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド,ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば,水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬編『証言 水俣病』)

 前回記事の続きというか補足なのだが,浅田彰が話していたことで,もう一つ興味深い話があった。前回載せたYouTube動画ではカットされていて観ることができないので,私の記憶をたどりながらここで紹介しておきたい。すなわち浅田さんは,マクルーハンというメディア理論家を引き合いに出して,インターネットが世界を覆い,誰もがSNSを利用して発信できるようになった現在の電子空間は,プレモダンな「地球村」だと話していた。それは決してモダンな「世界都市」ではない,と。

 

 

 ネット上で戯れる現在の私たちは「地球村」に暮らす村人なのか,それとも「世界都市」に生きる市民か――

 

 浅田さんによれば,現代のネット空間においては,音や映像を含めたリアルタイムの情報が溢れる中で,人々は公私の区別なく情報の海に浸り,本音ぶっちゃけトークを繰り広げる。こうやって仲良くなったネット友だちを身近に感じ,密につながっている感覚を持つようになる。このようにプライベート空間と公共空間がゴッチャになったところでは,理念や建前,理想主義は忌避され,本音や露悪主義が井戸端会議的に短文で語られる。これはまさにプレモダンな「村」の,ポストモダン的な回帰現象であろう。

 

 それに対して,モダンな「都市」においては,個人が印刷された活字を読んで内面で理解し,自分の考えを一貫性のあるメッセージとして公共空間に発信する。それが市民の間の理性的な議論につながり,近代的な都市空間に発達する。都市とはこうした公私の区別のある空間なのである。

 

 まさに浅田さんが言う通り,現代のネット空間は「地球村」的な状況である。公私をゴッチャにして本音をぶつけるのが好まれる。根拠のないデマや陰謀論が飛び交う一方で,理念や思想を戦わせる真の意味の言論はSNSではなかなか成立しにくい。

 

 こうやって浅田さんの話を紹介している私も,実は「地球村」にすっかり馴染んでしまっているのだった。「世界都市」に居るつもりでブログなどに活字的な文章を書いて,一貫性のあるメッセージを公共空間に発信しているつもりでいたけども,「いいね」とか「みたよ」をもらって喜んでいるもう一人の自分がいる。前回記事のように常連の読者さんたちの「みたよ」が少なかったりアクセス数が少なかったりすると,何だか落ち込んだ気分になる。これは明らかに村八分を怖れる「村人」的な心性であろう。市民として公共空間に言論を発しているのであれば,そんなくだらないことは気にならないはずだ。

 

 前回記事で紹介したように浅田彰はストライキやデモなどで「楽しく闘争しよう」と言っていたが,その土台となるのは,SNSによるコミュニケーションではなく,活字の黙読を通じた都市市民的なつながりであろう。寺山修司流にあえて挑発的に言うなら,「ネットを捨てよ,活字を読もう」と,私も含めたグローバル・ビレッジの住人に伝えたい…