「群衆」とは何か | ブロッギン・エッセイ~自由への散策~

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アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド,ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば,水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬編『証言 水俣病』)

 

 ジャーナリストの田中龍作さんが昨日のブログで東池袋公園での炊き出しの様子をレポートしてくれている(↑↑↑)。まあ,これがアベノミクスと黒田バズーカの終着点と見て間違いないだろう。東京株式市場では日経平均がバブル期の最高値を超え,先週は4万円を突破した。また今年の春闘では4~5%ものベースアップが見込まれるという。しかし足元の景気が良くなったという実感は全くない。持続的な物価高の中で賃金や時給は上がらず,私たち庶民の生活は苦しくなるばかりである。

 

 私が「アベノミクスと異次元緩和の終着点」という表現で訴えたいことは,アベノミクスと異次元緩和で富裕層や大企業が潤った一方で,庶民や弱者はますます貧しくなったという揺るぎのない現実である。アベノミクスというのは,いわば資本主義経済の原理を地で行く政策であったわけで,その当然の成り行きとして格差の拡大と貧困の広がりが私たちの社会にもたらされたのである。自民党政権は例えば生活保護費を削減し,難病患者の医療費負担を大幅に引き上げるなどして,市場原理主義と自己責任論を社会のあらゆる領域に貫徹させた。ケインズ主義的な修正や社会主義的な福祉政策は拒絶され,社会が壊れた。そういう意味で東池袋公園の長蛇の列はアベノミクスの終着駅と言えるわけである。

 

 ところで,私は東池袋公園で食料配布を待つ人々の姿に,エドガー・アラン・ポーやボードレール,エンゲルスらが描いたような「都市の群衆(=大衆)」を見る思いがする。故・今村仁司は近代社会を「群衆社会」ととらえた。ステレオタイプの理解では,近代と言うと「個人」「市民」「階級」といった自立的な人間を前提に考えがちだが,今村は「近代社会で経験的実体にあたるものは群衆しかない」と言う(今村仁司『群衆――モンスターの誕生』ちくま新書p.10)。

 

 つまり,フランス革命での革命群衆の活躍を例に挙げるまでもなく,歴史は群衆が動かしてきたというのである。その場合,重要なポイントは,この群衆に対してどういう態度をとるか,ということである。それが思想の性格を決定する。ドイツのヘーゲル左派は,近代啓蒙主義思想を引き継いで,群衆・大衆を「上から」啓蒙しようとした。というより,むしろ大衆を馬鹿にして歪んだ大衆像を作り上げた。すなわち大衆は無気力であり怠惰であるから,啓蒙によって強いドイツ的精神をもった人格に改造すべきだと考える。このようなヘーゲル左派的な観念的大衆像は,トリクルダウンを信じて疑わなかったアベノミクスの大衆像と通じるところがある。

 

 これに対して,マルクス,エンゲルスらの社会主義者やアソシエーショニストは,群衆・大衆の中に資本主義の軛(くびき)からの解放という可能性を見出す。つまり彼らは,群衆の中にあるおぞましい面や画一性といったものを批判するが,同時に群衆が階級(プロレタリアート)へと成長転化し,歴史を作り変えるという展望を構想していた。

 

実態は群衆でしかない人間群(貧民)をどのように「階級」に仕上げるかが,その後のマルクスとエンゲルスにとっての課題になることでしょう。いずれにせよ,マルクスやエンゲルスの視野に「都市の群衆」が何かをなすべく要求するものとして立ち現れてきたことは確かなことでしょう。(本書p.100)

 

 私たちは群衆(貧民)が何者であるかを見誤ってはならないだろう。群衆は社会の危機を体現している。だからこそ群衆への対応が思想と運動にとって決定的に重要になる。私たちは群衆とともに社会と文化の危機を乗り越えるべく,労働者「階級」として闘わねばならない…

 

歴史的行動とは大衆の行動である!

(マルクス&エンゲルス『聖家族』)