「無関心が人を殺す」 | ブロッギン・エッセイ~自由への散策~

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アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド,ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば,水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬編『証言 水俣病』)

 

 メディアは黙殺しているが,南アフリカ政府がイスラエルをジェノサイド条約違反で国際司法裁判所に提訴している。この注目すべき裁判において,私は言うまでもなく南アフリカを支持している。これはアパルトヘイトの経験がある南アフリカだからこそできた提訴であろう。逆に,アメリカはもちろん,ホロコーストの経験を持つドイツなどの西欧諸国は,南アの提訴に反論するイスラエルを支持しており,南アの主張が裁判所に認められるかどうか予断を許さない。

 

 ところで,前回記事で紹介した『入門 人間の安全保障』(中公新書)では,ICRC(赤十字国際委員会)の元副委員長ジャン・ピクテがかつて挙げた四つの「人道の敵」を紹介している。すなわち,その四つとは「利己心,無関心,認識不足,想像力の欠如」である。なかでも無関心は人道上の重大な脅威であろう。筆者の長有紀枝さんは,その点に関して次のように述べている。

 

ピクテは続けて,無関心は長期的には弾丸と同様に確実に人を殺す,と主張しました。自分に関わりのない地域で起きている事件であろうと,その実情に対する認識と,それを看過しない想像力,そうしたものをもつ社会風土や世論を作り上げていくことが,ジェノサイドの阻止のための方策の第一歩ではないでしょうか。それは紛れもなく,私たち,一人ひとりの責任であり,役割です。

(長有紀枝『入門 人間の安全保障』中公新書p.229~p.230)

 

 無関心が人を確実に殺す,というピクテの主張に私は深く同意する。実際に今もパレスチナでは,私たちの無関心や認識不足によって多くの人が殺されているのだ。パレスチナでのジェノサイドに対して,集団安全保障を掲げる国連は全く機能せず,安保理は停戦決議案すら可決できない。そんな中で南アフリカが動いたわけである。これは,政府・国家主導というよりは,南アフリカの「社会風土や世論」が政府を動かしたのではないかと私は見ている。地球上のどの地点で起きたものであろうと,ジェノサイドという事実への関心と認識,それを看過しない想像力が南アフリカ市民にはあるのだと思う。それに対して,ここ日本では,どこでジェノサイドが起ころうとも,いっさい関知せずに平穏な生活を送ることができる。本当におめでたいお国柄なことだ。だが,そういう無関心がジェノサイドをエスカレートさせているのだ。南アフリカと日本では,市民一人ひとりの,パレスチナの事態に対する関心の高さや責任意識が違いすぎる。

 

 前回,私は「国家安全保障」から「人間の安全保障」への転換が必要だと書いた。国家安全保障の主体は国家と軍隊である。他方,「人間の安全保障」の主体は,国家や軍隊のみならず,国際機関や市民団体,NGO,または労働者・消費者・選挙民としての私たち自身,そして「人間の安全保障」を阻害された人々自身である。つまり,私たち市民社会が「人間の安全保障」の主体なのだ。だからこそ,国家の論理に振り回されずに,少数者や弱者,虐げられた者の側に立つことができる。南アフリカは,そうした「人間の安全保障」の主体となる市民社会が成熟しているように思える。だから,イスラエルをジェノサイド条約違反で提訴できるのだ。それに対して,ジェノサイド条約に加入すらしていない日本は一体何様のつもりなのか?

 

 現在パレスチナで起きている歴史的なジェノサイド・民族浄化に関心を寄せず,ジェノサイド条約に加入もせずに成り立っている私たちの豊かで平穏な生活とは,一体どんな意味や価値があるというのか。そんな上っ面だけの豊かさや平穏は持続的ではあり得ないだろう。いずれ戦争や大量虐殺,災害等によって簡単に崩壊してしまうに違いない。そうならないためにも,「国家安全保障」的な思考から脱却し,「人間の安全保障」の視点に立って世界の問題を考え行動することが大切だと思うのだ。

 

 私たち市民がパレスチナで起きているジェノサイド・民族浄化を自分事として受け止め,それを阻止するために声を上げ,運動を広げていきたいと思う。それが政府・国家を動かし,国際社会を動かす。長有紀枝さんは同書で,武力紛争下における人間の安全を守るために,国際社会には「人道的介入(介入する権利)」だけでなく,「保護する責任(介入する責任)」がある,という言説を紹介している。こうした言説は,ジェノサイドを阻止するためには従来の国家を主体とした集団安全保障の枠組みでは限界があることを示している。代わって必要とされるのは,「人間の集団安全保障」とでも言うべき国際的な枠組みである。すなわち,ジェノサイドや民族浄化にさらされている人たちの安全を最優先に考え,当事国政府が機能停止している場合は私たち国際社会が彼ら・彼女らを「保護する責任」を持つという考え方である。上の引用文で長さんが書いているように,ジェノサイドを阻止してパレスチナの人々を保護することは,国際社会を形成する私たち一人ひとりの責任であり,役割なのだ!にもかかわらず,その責任を自覚せず,ジェノサイド条約にも加盟しようとしない日本に住む人々は(私も含めて),パレスチナの人たちを殺しているのも同然なのである。

 

 

 

 こういう人たちが国境を越えてつながり,ジェノサイドを阻止する力になる…