長有紀枝『入門 人間の安全保障』(中公新書) | ブロッギン・エッセイ~自由への散策~

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アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド,ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば,水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬編『証言 水俣病』)

 「人間の安全保障」という概念が,結局この国で定着することがなかったことを非常に残念に思う。30年くらい前にアマルティア・センが唱え,それを受けて国際社会で普遍的な概念として普及が図られたため,日本でも表向きは「人間の安全保障」を外交の柱の一つに位置づけたが,実際のところ日本社会に普及し定着することはなかった。この国では安全保障とはあくまで国家安全保障であり,国防・軍事のことに他ならなかった。最近は「経済安全保障」ということが盛んに言われ出しているが,これも一人一人の人間の安全保障を主眼に置くものではなく,国家の存立・繁栄を守るという意味で国家安全保障の一環として位置づけられよう。

 

 そもそも「人間の安全保障」を重視して,それが規範的な概念として社会に普及・定着していたなら,原発のような人間の健康と安全を脅かす発電事業は廃止する方向に向かっていただろうし,また国策として軍事・防衛よりも災害対策に力を入れていたであろう。今回の能登半島地震においても,人間の命を蔑ろにする,あまりにも遅くてお粗末な政府の対応が目に余った。緊急を要する事態にもかかわらず,人員の投入も物資の搬入も,あまりに遅く小規模であった。今回の政府・行政の対応は,”too late, too little”の一言に尽きる。

 

 東日本大震災を契機に「人間の安全保障」という考え方がもっと日本社会に広がり,政府の国家統治にも反映されるかと思ったが,そういうことには全然ならなくて,人間の消えた安全保障だけが闊歩した。それが災害対応の鈍さや地震被害想定の甘さにつながっている。

 

 「人間の安全保障」概念に関して,それがあくまで国家が主導するものである点に私は異論があったが,しかし「人間の安全保障」は,国家を前提とした「国民」概念を後退させ,一人一人の顔が見える具体的な「人間」を前面に押し出した。その点は大いに評価してよいだろう。だから,もし日本でも「人間の安全保障」概念の導入が積極的に図られ,政治・外交・安全保障,経済政策,災害対策等,国家統治に反映されるなら,もう少しまともな国に変われたのではないかと思う。だが,それは結局,甘い期待であった。

 

 今回のような大きな災害は,その社会が抱えていた構造的な問題を可視化させる。東日本大震災は,明治の近代化以降,日本が抱えてきたさまざまなひずみや矛盾を顕わにした。東日本大震災の犠牲者のうち高齢者の割合が高かったことは,日本の人口構造を反映していたと言えるが,障害者手帳の所持者のうちで犠牲になった人の割合が,住民全体の死亡率に比べて2倍以上高かったことは何を意味しているだろうか。

 

自然災害は,あらゆる人に平等に襲いかかりますが,その被害は高齢者や障害者といった社会的弱者に集中することが,途上国のみならず,先進国日本においても,まったく同様であることが東日本大震災を通じて明らかになったのです。

(長有紀枝『入門 人間の安全保障』中公新書p.237~p.238)

 

 また,東日本大震災では女性が男性と比べてよりも多く犠牲となり,災害時の女性の労働負担,女性への暴力が増えて女性の人権が守られない状況があった。東日本大震災は,女性やジェンダーへの配慮がほとんどなされてこなかったという,これまで不可視化されていた問題を可視化させた。平時に潜んでいた構造的暴力が,戦時や災害時には顕在化するのである。

 

 そして,福島第一原子力発電所の事故は,私たちの社会がとんでもない化け物と同居していたことを暴露した。原発事故は,原発周辺地域の住民の生活と将来を破壊し,健康不安を招き,地域や家族を分断した。また原発は,高い放射線にさらされて働く原発労働者によって支えられていることも可視化した。このような一部の人の犠牲の上でなければ成り立たない原発を,私たちはこれからも容認し維持し続けてよいのか。

 

東日本大震災は,明治の近代以降,日本が抱えてきたさまざまな問題と結びついている,という指摘もあります。日本全体としては,繁栄を誇りつつも,多数者の利益のために,必然的に存在する問題の影響や影の部分を,少数者や社会の一部の構成員に押し付けてきた社会でもあるということです。沖縄の米軍基地の問題,明治時代後期に発生した日本の公害の原点である足尾銅山鉱毒事件や,水俣病,そして原子力発電所の問題です。

(同書p.243)

 

 「人間の安全保障」の視点から原発の問題を考え直すなら,どのような認識が生まれるか。――「人間の安全保障」の人間とはすべての人を指す。その場合,特に社会の周縁に追いやられた人々に配慮を払う。とするなら,一部の人に圧倒的な犠牲を強いる原発はもはや続けることはできないという認識になるだろう。もしも,今回の地震で壊滅的被害を受けた珠洲市に計画通り原発が建設されていて稼働していたなら,能登半島全域さらには北陸全体が壊滅し,日本全体に大量の放射性物質が降り注いだにちがいない。珠洲市の原発計画は住民の反対等で実現しなかったが,「人間の安全保障」の観点から見て,それは正しい選択であったと言うほかない。

 

 

 能登半島西岸の活断層の上に建てられたらしい志賀原発も今や予断を許さない。使用済み核燃料の冷却水や冷却油の大量漏れが起き,外部電源も一部が停止した。おまけにモニタリングポストが故障していて放射線量が測定できないというのだから,由々しき事態だ。万一ここが稼動していたら,メルトダウンを起こして福島第一の二の舞になっていたことは想像に難くない。

 

 原発は,「人間の安全保障」の観点から見直し,一刻も早く全炉廃炉に向けて踏み出すべきだ。原発だけではない。辺野古新基地も,大阪万博&カジノも,ミサイル防衛システム&敵基地攻撃能力も,「人間の安全保障」の観点から見れば,もはや撤回しか道はない。その意味で,大阪万博を中止してそのリソースを被災地に回せというネット上の声は,珍しく正鵠を射ている。

 

 「人間の安全保障」は,もともとは途上国や紛争下の人々を念頭に置いて登場した概念であるが,平時に先進国内部においてもすべての人の「安全」が「保障」されているわけではない。平時の先進国においても「人間の安全保障」を阻害された人々が多く存在しているのだ。現状で言えば,被災地で避難所生活をしている人たちの「安全」が十分に「保障」されているのか,懸念が募る。

 

 「人間の安全保障」概念は,そのように「人間の安全」が保障されていない人たちが,既存のシステムや為政者に対して「異議申し立てを行い,新たな指針やヴィジョンを示す重要な手掛かりになる考え方」(本書p.3)と言える。「人間の安全保障」を根拠に原発や大阪万博,軍拡に反対しよう。すなわち「人間の安全保障」を阻害する国家政策,公共事業,プロジェクトはすべてNOだ!

 

 大阪万博のテーマは「いのち輝く未来社会のデザイン」だそうだが、まさにこれは「人間の安全保障」の理念と合致する。「いのちを救う」ためにこそ,万博を中止して,その予算やリソースを被災者救済・支援,被災地の復旧・復興に回すべきだ。

 

 今こそ「人間の安全保障」を、と強く訴えたい。大地震が能登を襲った今ここが不可逆的な転換点だ…