原真人『アベノミクスは何を殺したか』(朝日新書) | ブロッギン・エッセイ~自由への散策~

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アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド,ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば,水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬編『証言 水俣病』)

 前回記事で社会が狂っていると書いたのだが,アベノミクスというのは史上稀に見る狂った経済政策であったと位置づけてよいだろう。すなわちアベノミクスは,ヒト・モノ・カネの流れを時代錯誤の経済大国に向けて逆噴射した,取り返しのつかない経済政策であった。ところで掲題の本は,アベノミクスに批判的な論客13人に朝日新聞の原真人がインタビューした内容を収めたものだが,タイトルから予想されるようなシビアな批判は少なく,やや物足りなさが残った。

 

 アベノミクスは日本の実体経済をズタボロにし,私たちの生活をますます苦しい状態に追い込んだと言える。豊かになったのはほんの一部の資産家と大企業だけだ。私たちはこれから長い期間にわたってアベノミクスの「負の遺産」を背負わされることになる。すでに現状において私たちはアベノミクスの後遺症と言うべき円安・物価高,実質賃金の低下に苦しめられ,日々の生活が立ちゆかなくなっている。

 

 本書には,そういった経済の実態や市民の生活にアベノミクスが及ぼした影響についての議論が少なかったように思う。アベノミクスがどれだけ日本の景気を悪化させ,人々の雇用や生活を破壊したのか,そういった実体面についてもっと議論してほしかったと思う。事実,アベノミクスの10年間で,日本の一人当たりGDPは2012年の14位から30位まで落ちた。つまり一人一人は貧しくなった。また経済格差も広がった。こんな経済政策が「一定程度,成果はあった」とか,ましてや「成功した」などと言えるわけがない。

 

 元日銀理事の門間一夫という人は,本書で「異次元緩和は効果がないことは分かっていたが,やるしかなかった」と正直に告白している(本書p.223~224)。要は,日銀としてはデフレ脱却に向けて「やってる感」を国民に示したかっただけなのである。日銀は国民からの信頼を守らなければならなかった。世の中の一部で受け入れられていた「金融緩和が足りないからデフレを脱却できない」という誤った議論も無視するわけにはいかなった。だから,異次元緩和は効果がないけど,やるしかなかった,と。

 

 このように日銀サイドの人間も認めているように,いくら異次元であっても黒田バズーカであっても,金融緩和には効果がない。結論は出たと言っていい。特にインフレ抑制の金融引き締めと比べて,デフレ脱却のための金融緩和は効果が出にくい。アベノミクス10年の壮大な社会実験がそのことを示したと言ってよいだろう。

 

 私は若いときにケインズやマルクス経済学の薫陶を受けているので,金融政策の効果にはもともと懐疑的だ。中央銀行が短期金利の誘導をして行う伝統的な金融政策だけでなく,近年の量的緩和やゼロ金利,インフレターゲット,YCCといった非伝統的な金融政策にももちろん不信感が強い。巨額の財政支出を国債発行でまかない,中央銀行がそれを金融市場で買うという財政と金融のポリシーミックス(財政ファイナンス)は,危機克服においてそれなりに有効だと思うが,アベノミクスのようにお金さえ金融市場に流せば景気が良くなるという考え方で,異次元だ!バズーカだ!と言って金融緩和をゴリ押ししても,実体経済の回復には結びつかない。

 

 本書で柳澤伯夫という元金融担当相が言っているのだが(本書p.270),こういう異次元緩和政策=リフレ政策がなぜ効かないかを解明することに経済学者はもっと力を注ぐべきであった。そういうリフレ批判の議論が低調だったために,「デフレを抜け出せないのは金融緩和が足りないせいだ」という言説がエコノミストや経済学者によってまことしやかに説かれ,結局,金融政策当局もそれを受け入れることになった。

 

 古いケインジアンと思われるかも知れないが,やはり私は,景気回復には財政支出で有効需要を作り出していくしかないと考えている。しかし今はマルクスやケインズの時代とは違うので,ただ公共事業をやってお金をばらまけば上手く行くというものでもない。本書で保守派の佐伯啓思や経済学者の小野善康が言っているように,今の日本で必要なのは,供給側の成長ではなく,需要の成長なのである。いわゆる成長戦略で供給側の規制を外しても,実際には需要がないのだから経済成長には結びつかない。需要が足りない中で,供給側で競争が活発になれば,当然デフレになる。

 

 佐伯や小野が言っているように,需要の視点に立った「需要の経済学」が今,求められているのだと思う。そこからもう一度,アベノミクスを検証し直す必要がある。

 

小野 貧しいときは必ず需要のほうが供給を上回っているから,供給力のことだけ考えれば良かった。しかし供給力がこれだけついてしまった日本では,今は国力の向上には需要のほうが効いてきます。つまり我々自身がどうやって生活を楽しむことができるか,芸術や音楽を楽しむとか,公園をきれいにするとか「新しい需要を考える力」,それこそ国力です。

(原真人『アベノミクスは何を殺したか』朝日新書p.333)

 

 このように供給力の大きさに比べて総需要が少ないデフレ状態が続けば,貧困や格差が深刻なことになる。その点も小野が指摘していた。アベノミクスを検証する上で重要なポイントだと思う。

 

小野 放っておけば経済の総需要不足が続いて,失業や(短期雇用,派遣労働のような)非効率的な雇用を生むからです。そういう社会ではいったん貧困になると,負債と所得不足によってますます貧困から抜け出せなくなってしまいます。それでは富裕層との格差が広がるばかりになってしまうでしょう。

(同書p.345)

 

 筆者&インタビュアーの原真人はゴリゴリの財政健全化論者だから,本書でも国家財政の破綻やハイパーインフレに対してはヴィヴィッドに危機感を示しているのだが,一方で,すでに破綻寸前の家計や中小企業は多く,貧困や格差がこの国を覆っていることにはあまり関心がないようだ。そうした深刻な経済状況にアベノミクスは深くコミットしているにもかかわらず…。

 

 この原という朝日新聞記者は,安倍政権の経済政策を批判的な意味合いで「アベノミクス」と新聞一面に初めて書いたことからアベノミクスの名付け親とされるが,その後,その言葉はむしろ肯定的に使われるようになり,安倍政権のイメージにもプラスに働いた。つまり原は結果的に安倍政権の政策宣伝に利用されたことになる。同様に,原の財政健全化論も,国家的視点に立つがゆえに,本質的なアベノミクス批判になり得ていない。もっと個人消費や設備投資といった国内需要の観点から分析しないと,アベノミクスの根本的な批判はできないと思う。

 

 本書のタイトルは「アベノミクスは何を殺したか」となっているが,原の結論としては財政規律を壊した(殺した),ということになるのだろう。あるいは中央銀行の独立性を奪ったとか,官僚組織の自立性を壊したとか,そういう話になる。いずれも国家システムの根幹に関わる部分である。「何を殺したか」という自らの問いに対して,要するに国家の持続可能性を殺したと答えたいのだろう。それは,(庶民を切り棄てて)国家を救えという主張にもなりかねない。

 

 本書ではそういう原の国家中心思考が気になった。国家の政策が民間経済の実態や庶民の生活にどのような影響を及ぼしたのかといった側面は原の視野からはほとんど消えている。歴史経済学の水野和夫が,「明日のことを心配しなくていい社会」を築くことが大切だと述べていたが(本書p.309),原の立場では「明日のことを心配しなくていい国家」を作ることが大切なのだろう。原が財政ファイナンスを殊更問題にするのも,国家財政の持続可能性が損なわれるという理由からであって,景気回復に効果がないという理由からではない。だから国民への増税も平気で主張できるのだ。経済の実態,庶民の生活実感を知らないマスコミ記者が書くアベノミクス批判は,いつもこういう的外れで生ぬるいものとなる。アベノミクスは国家財政を殺したのではなく,私たちの社会を狂わせ殺したのだ…