社会が狂うということ | ブロッギン・エッセイ~自由への散策~

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アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド,ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば,水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬編『証言 水俣病』)

 いろいろ忙しくてブログを書く時間が取れないのだが,最近のさまざまな問題を見ていて強く思うのは,社会が病んでいる,おかしくなっている,ということである。精神科医のなだいなださんの言葉を借りて言えば,社会が狂っている,ということになる。「狂い」とか「きちがい」という表現は今では御法度だが,70年代に出たなださんの『くるいきちがい考』は,「狂い」「きちがい」という言葉を生んだ社会の常識を批判的に問い直していて,現代にも十分通用する考察と言える。以下の私の考察も,なださんの「くるいきちがい考」を下敷きにしている。

 

 さて,ちょっと前のDJ SODAの性暴力被害や,ジャニー喜多川の性加害問題について,筑波大教授の原田孝之氏は反社会的な「認知のゆがみ」を指摘している(9/13付中日新聞夕刊)。すなわち,性的自己決定権という重要な人権を軽視し,被害者にも非があると責め立てたり,性犯罪を何十年も放置し続けたりするような社会は,性犯罪者と同様の「認知のゆがみ」を共有している,という趣旨である。まさに原田氏は,社会が狂っていることを指摘しているわけである。

 

 また,ジャーナリストの安田菜津紀さんは,国が沖縄に過剰な基地負担を強いてきた「不条理」を批判する。だが,同時にその不条理は「社会の無関心」によって下支えされてきたものだと指摘し,社会の責任を問う(9/11付中日新聞夕刊・社会時評)。安田さんの言う「社会の無関心」は,結果として沖縄に米軍基地を押しつけることによって沖縄の人たちの人権を侵害している。つまり本土に住む私たちの社会は,沖縄にとって,性的自己決定権を侵害する性犯罪者と同様,加害者となって立ち現れているのだ。

 

 一連の性暴力事件と沖縄の基地問題は,社会の病理・狂いから来ている点で共通しているように思う。だが,社会には自分の狂いに自覚がない。それは個人が自分の異常に気づかないのと同じだろう。社会の狂いは,その社会の外側に身を置いてみないとなかなか気づけない。だから,知らないうちに暴走しエスカレートしていくのだ。

 

 韓国から来日したDJ SODAの事件も,イギリスBBCの番組が関心を呼ぶきっかけになったジャニーズ性加害問題も,また沖縄の基地問題も,いずれも社会の外側からの圧力によって日本社会の病理が発覚したケースと言えよう。だが特に外国に身を置かなくても,国内に居ながら想像力を働かせれば社会の狂いに気づけるはずだ。

 

 保守派は古来からの日本の伝統や価値観に身を置いて,現状の狂いに気づけるはずだし,リベラル・左派は理想の社会に身を置いて今の日本はおかしいと認識できるはずだ。私は,社会に弾き出された者やマイノリティの声をできるだけ聞き,その立場に身を置いて考えるようにしている。そのように想像上で社会の外側に身を置くことによって社会の狂いや病理を察知・発見し,社会に自覚を促すよう働きかけることができるのではないかと思う。

 

 日本社会の狂いは,例えば関東大震災時の朝鮮人虐殺をもたらしたし,第二次世界大戦では七三一部隊による人体実験や戦場での集団自決などを生んだ。最近の事例で言えばオウム真理教事件もそうだし,その他の無差別殺人,あるいは自殺者の増加も,社会の狂いがもたらした大量殺戮という面は少なからずあると思う。私たちは何か大きな問題が起きても個人の狂いにしか目を向けず,すべて自己責任で済ませてきたのではないか。社会の狂いの方に目を向ければ,社会が無差別殺人を生み,自殺を増加させたことが見えてくるだろう。

 

 一人一人の人間は,実は穏やかでやさしい人間だったりする。にもかかわらず,というかそれゆえに,社会がとち狂っていく。そういう個人と社会のパラドクスに留意すべきだろう。ごく普通の生活者が,社会的な文脈の中で何かをきっかけに残虐な行為に及ぶことがある。人間は善良なままに悪魔になれるのだ。そのことを歴史は何度も示してきた。

 

 その昔,ホモと呼ばれた同性愛者たちは病気だと見なされていた。当時のほとんどの人々はそう信じ込んでいた。だから社会から隔離し,人権を侵害しても構わないと考えられた。だが同性愛は客観的事実として病気ではなかった。病気だったのは社会の方だったのである!彼ら・彼女らを病気扱いしていた精神科医は社会の狂いに積極的に加担していたことになるし,社会の大多数の人々はその狂いに気づくことなく,結果として少数の同性愛者を差別し迫害し続けたわけである。

 

 真面目で善良な人間であるからこそ,社会の秩序や安定を壊すとして社会の第三項=異物と見なされた人たちを排除することに躊躇しない。すなわち私たちは在日朝鮮人を殺戮し,LGBTQの人たちを差別し,アイヌや沖縄の人々の生存権を奪ってきた。社会が狂っていく中でごく普通の市民がそういう集団的な残虐行為にのみ込まれていく可能性はいつ,どこにだってある。今また私たちは狂いの中にいる…