プライムニュース「黒田日銀の10年を総括 “異次元緩和” 功罪は」
渡辺努さんが最近出した『世界インフレの謎』(講談社現代新書)という本はまだ読んでいないのだが,渡辺さんが上の動画のようなテレビ番組に出て話しているのを聞いていると,まあ主流派というか正統派の経済学者だなあという印象を受けた。それが一番よくわかるのは,彼が黒田日銀の大規模緩和を肯定的に評価している点である。この金融政策は,人々の期待に働きかけて景気浮揚をもたらそうというものだ。だけど,何か変じゃないか!
渡辺さんやリフレ派のような経済学者やエコノミストは,およそ次のように考える。――日銀が大規模緩和で大量の通貨を供給し続けると,人々は将来物価が上がるだろうと予想(期待)する。これを「予想(期待)インフレ率の上昇」という。この期待インフレ率の上昇は予想実質金利を低下させ,金利が低下すれば,設備投資が増加したり,資産効果を通じて消費支出が増えたりして,景気改善につながる,と。
こういった波及プロセスの前提にあるのは,人々の予想である。渡辺さんは冒頭の動画(17:50~)では,それを「気分」と表現している。すなわち,それは物価が上がるだろうという,人々の全く科学的根拠のない,曖昧な予想,期待なのである。こういうあやふやな人々の期待や気分を前提に,経済・金融政策が組み立てられているのである。渡辺さんも冒頭の動画で「インフレもデフレも人々の気分次第だ」と発言している。だが,ちょっと考えればわかることだが,例えば供給過剰の社会では,いくら異次元の金融緩和を続けても物価はなかなか上がらない。
そもそも人の期待や予想は多様であって,かつ曖昧なものだ。それを一律だと考えて理論を組み立てているのが正統派(新古典派)の経済学である。「人々の期待に働きかけてインフレにする」って,どっかのカルト宗教や自己啓発セミナーを思わせるいかがわしさを私は感じてしまう。
実際,黒田が目標に掲げた2%のインフレも起こらなかったし,したがってインフレを通じた設備投資や消費支出の増加も起こらなかった。結局,黒田緩和が何をもたらしたかと言えば,財源調達という一点に尽きるのではないか。すなわち,財政法で禁じられている国債の日銀引き受けである。先の戦時中も,政府の発行する長期国債を日銀が直接引き受け,財政支出を増やすということを行ったが,黒田日銀も同じことをやったにすぎない。要は国債(=政府の債務)をせっせと貨幣に換えただけ。しかし,その貨幣は日銀にある各銀行の当座預金を増やしただけで,そこから企業に融資されて設備投資に向かうことはなかった。したがって,実体経済を活性化させることはなかった。
一方,黒田緩和は株高や円安をもたらした,とよく言われる。アベノミクスや金融緩和に批判的な人ですら,この点を認める人が多い。だが,その点もはっきりした根拠はない。伊東光晴氏は『アベノミクス批判』(岩波書店)で,株高は主として海外投資家の買いがもたらしたものであり,円安は複雑な為替介入の結果であることを実証している。つまり,2012年末に民主党から自民党へ政権が交代していなかったとしても株高や円安は起こっていただろう,というのである。
政権が民主党であろうと自民党であろうと生じた経済を,安倍政権の政策の帰結とする愚かさから,我々は解放されなければならない。
(伊東光晴『アベノミクス批判』岩波書店p.35)
以上に述べてきたような私の考えは,主に伊東光晴さんやポスト・ケインズ派の経済学者から学んだものだが,ポスト・ケインジアンは《金融政策の非対称性》を主張する。すなわち,金融政策はインフレを抑えるのには有効だが,不況からの回復には効果がない,と。
そのことは歴史を見てもわかる。1930年代のアメリカの不況期に,マネタリストが主張するように通貨を増やして物価を上げようとしたが,上手くいかなかった。つまり,不況下で通貨を増やしても意味はない。企業や個人は銀行からお金を借りようとはしないからだ。この点に関して,ポスト・ケインズ派のガルブレイスは,有名な「紐理論」を説いている。すなわち,紐を引っ張れば効果があるのと同様に,中央銀行が金融引き締めによって銀行貸出量を減らし,それによって貨幣供給量を減らすことはできる。だが,紐を押しても効果がないように,金融緩和をしても銀行貸出量や貨幣供給量を増やす効果はない。
今日私が言いたいのは,人々の期待や気分に働きかけて経済を動かすという,呪術的というかオカルト的な教義を前提にした経済学を信用していいのか(いや,信じてはいけない!)ということである。先に書いたように,人間は多様な存在であり,したがって期待とか予想も人それぞれである。物価が上がると期待する人もいれば,下がると予想する人もいる。また,物価が上がるだろうと予想する人でも,必ずしも消費支出を増やすとは限らず,生活防衛のために消費支出を切り詰める人も多いはずだ。金融緩和やインフレターゲットなどの非伝統的な金融政策を説く経済学者の現実感覚が疑われる。
実際,物価が上がるだろうと思っていた私は,物価が上がる前にたくさん買っておこうという行動には走らず,物価が上がる前から消費を切り詰めた。そこで私は本の購入量も減らし,そのために渡辺さんの本も買わなかったのである。物価が上がる前に買おうと行動できる人は,一定の所得水準以上の富裕層だけだろう。
ポスト・ケインジアンの代表的存在であるジョーン・ロビンソンは「経済学を学ぶ目的は経済学者にだまされないためだ」と言った。私たちは,人々の期待や気分を操作しようとするオカルト的でファッショ的な経済学者に対する期待や評価を,現実に照らして修正しなければならない。今日まで経済学者に対する期待インフレ率が高すぎたのだ…