「求めるなら変化はくる」(大江健三郎) | ブロッギン敗北【ご愛読ありがとうございました】

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アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド、ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば、水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬)
そして21世紀のいま、史上最悪のジェノサイドがパレスチナの地で、殺人国家イスラエルによって遂行されている…

 前回記事で紹介した著書で中野剛志さんは「恒久戦時体制を築くべし」というトンデモない結論を引き出したわけだが,経済合理性プロパーの狭い視野と論理で考えていくからそういうことになるのだろう。例えば,そこには人権という観点は全く入っていない。戦時体制下では,憲法で保障されている基本的人権が国家権力側の都合で勝手に制限されてしまうし,また,それに対して,「私には思想・良心の自由がある」と抵抗すれば,自衛隊員から銃を突きつけられることになるだろう。

 

 国民単位の経済合理性だけを突き詰めていくから結局,戦時経済体制が最も効率的で生産性の高い合理的な経済システムということになり,戦争や戦時体制が一般市民や地べたの人々の生活や権利に何をもたらすかについては思考停止してしまう。経済の成長も生産性の向上も,人々の人権やモラルを前提とした上で語られるべきものだろう。

 

 戦時下にはどういう状況になるか。かつて厚生省(当時)が「原爆被害者援護法」という法律を作るに当たって示した文書には,戦時下の国民がどういう状況に置かれるかがはっきりと書かれている。すなわち――

 

戦争によりなんらかの犠牲を余儀なくされたとしても,国をあげての戦争による「一般犠牲」として”受忍”しなければならない

(『憲法九条、未来をひらく』岩波ブックレットp.44)

 

 

 戦時体制とは,こういうものなのだ。逮捕・拘束されない自由も,拷問を受けない自由も,思想・良心・信教の自由も何もあったもんじゃない。私たち一般市民は「問答無用に犠牲を受け入れ,耐え忍ばなければならないのだ」――。

 

 大江健三郎は,この国家による”受忍”の強制について,こう言っている。

 

広島,長崎で,また沖縄で,人間として決して受忍できない苦しみを人間がこうむった。そのことを,私たちは記憶し続ける必要があります。そして,それを語り続ける必要があります。あらためて,こうした上から覆いかぶさってくる”受忍”という説得があれば,それを拒まねばならないとも思います。 (同書p.45)

 

 「戦争による犠牲を”受忍”せよ」というのは,例えば戦時中に国家の軍隊から集団自決を命令されれば,それに従えということである。大江健三郎が多くの証言・資料を基に『沖縄ノート』(岩波新書)で書き記したように,実際にそれは戦時中,慶良間列島などで旧日本軍の守備隊長の命令によって起こったことだ。

 

 また,こうした「犠牲の”受忍”」とは,決して過去に向けてだけ言われているものではないだろう。中野剛志さんが著書で提唱する「恒久戦時体制」となれば,こういう”受忍”の強制はいつ起こってもおかしくないことだ。あるいは,自民党政府が画策する憲法への「緊急事態条項」の追加もまた,同様の”受忍”を私たちに要請するものだろう。私たちは普段の生活から,「基本的人権の制約」に関して注意深く,敏感になっておかねばならないし,軍拡→戦争へと突き進んでいる今こそ,絶対に”受忍しない”という覚悟を固めるべきであろう。

 

 

 大江健三郎が逝去した。「戦後民主主義」最後の砦というか,平和・護憲の希望の灯が潰えた,との感が強い。これで「九条の会」呼びかけ人9名のうち,澤地久枝さん以外はみんな亡くなってしまったことになる。戦後民主主義にこだわる私にとっては最後の大きな精神的支柱を失ったという喪失感に襲われている。

 

 私は大江文学のそんなに熱心な読者ではないのだが,若いときに読んだ「ヒロシマ・ノート」や「沖縄ノート」の衝撃が大きく,原爆や沖縄に強い関心を持つきっかけになったように記憶している。

 

 

 

 今,「九条の会」の呼びかけ人が2005年に有明コロシアムで行った講演を集めたパンフレット「憲法九条、未来をひらく」(岩波ブックレット)を読み返しているのだが,そこで大江さんは,上記のように国家による犠牲の”受忍”を拒む覚悟を訴えた。それは戦争による犠牲だけでなく,貧困や格差,差別,原発事故など,広く国家によって押しつけられる犠牲(=人権侵害)すべてについて,”受忍”を拒絶せよ,という意味だろう。”受忍しない”という態度を市民として貫け,と。

 

 そして大江さんは,米国の詩人から贈られた詩句に少しアレンジを加えて,

求めるなら変化はくる,しかし,決して君の知らなかった仕方で(同書p.49)

という言葉を若い人たちに向けて贈っている。若い人たちが求め続けるなら,「私たち古い世代の知らなかった形でこの国に変化はありうる」と。つまり,”受忍しない”という態度を貫き,平和・非核を粘り強く求め続ければ,その方向に向けて変化が訪れるだろう,という大江さんの若者に向けたメッセージだ。逆に,国家が強いる犠牲を”受忍”し,何も求めなければ,憲法改正→軍拡→戦争という今の流れは変えられないということでもある。どこまで今の若い人たちに届くかわからないが,私にできることはこういう大江さんの平和への強い意志を受け継ぎ,生涯にわたって伝え続けること,それしかないと思っている…