『7・8元首相銃撃事件 何が終わり,何が始まったのか?』(河出書房新社) | ブロッギン・エッセイ~自由への散策~

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アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド,ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば,水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬編『証言 水俣病』)

 LGBT法案が提出&成立するかどうかに注目が集まっているわけだが,自民党保守派だけでなく,国民世論にも結構反対意見があることを知り,驚かされる。仮に5月のG7までに成立させたとしても,国際社会に向けた体裁を優先した,全く中身を伴わない法律になるのだろう。

 

 

 このように日本でLGBTへの理解や法整備が進まない背景には何があるのか。LGBTなどの性的少数者を含めて,広くジェンダーの視点から見れば,日本社会に根強く残る女性差別や古びた家父長制的な家族観といったものが根本的な問題として指摘できるであろう。昨年の安倍元首相の暗殺事件は,自民党政治と統一教会との癒着というか一体化を暴露したわけだが,両者の一体性は,端的に女性差別に表れていると言える。

 

 安倍は2000年代にジェンダーフリーや男女共同参画政策,性教育などに対する反対運動を牽引したことなどから,ジェンダー的には非常に保守的な価値観を持った政治家であるとよく指摘される。その一方で,2010年代の第二次安倍政権では,そうした保守的なイメージを打ち消すかのように,「女性の活躍促進」を目玉政策として打ち出し,一見リベラルなイメージを世間にもたらした。だが,この女性活躍政策の実態は,「男女平等」や「女性差別撤廃」といった平等・人権擁護を志向したものではなく,構造的な女性差別はそのままに,一部のエリート女性をより懸命に国家のために働かせ,生産性を上げようとするものであった。その意味で安倍の女性政策は,リベラルではなく,ネオリベラルといった方が良い。本当にリベラルな立場だったら,もっと一般の働く女性の待遇改善に主軸を置いた政策をとるはずで,そもそも「女性活躍」などと煽らないだろう。

 

安倍政権の,バッククラッシュ活動に代表される保守的で女性差別的な側面と,女性活躍に代表されるネオリベラルな側面は,女性を抑圧し使い尽くそうとしているという意味で共通している。

(菊地夏野「安倍/統一教会問題に見るネオリベラル家父長制」,『7・8元首相襲撃事件 何が終わり、何が始まったのか?』河出書房新社p.70)

 

 

 

 ジェンダー論の菊地夏野さんは,上記の引用のように,安倍政権において並列・混在しているように見えた,復古的な保守主義とネオリベラリズム(新自由主義)が,実は女性差別という点で共通していることを指摘する。もっともな見方であろう。

 

 では,ジェンダーという観点から見て,安倍・自民党政権と統一教会の関係はどうか。統一教会が保守的な家族観を持ち,集団結婚式などによりジェンダーとセクシャリティを徹底的に管理したことは,よく知られる。統一教会の信者には女性が圧倒的に多く,彼女らはアイデンティティの核でもあるセクシャリティを管理され,内面の深くまで支配された。教団は悩める女性に高額な献金を強いて,本国韓国に送金し,教団の活動資金とした

 

 こういう統一教会の女性管理・支配体制は,女性活躍とかウーマノミクスとか働き方改革などを強制して女性から利益を搾取しようとする安倍・自民党政権の政策と酷似するものと言えよう。菊地さんは,統一教会と安倍政権に共通する本質的問題点として,

女性を抑圧し,利用するネオリベラル家父長制(本誌p.71)

を指摘する。「ネオリベラル家父長制」とは,上に述べた復古的な保守主義とネオリベラリズムが合流したところに表れる家族観,女性観にほかならない。統一教会と安倍政権の共通基盤をこれほど的確に表した言葉はないだろう。

 

 菊地さんが言うように,ネオリベラリズムと保守・反動主義の共鳴は,決して日本の安倍・自民党政権だけに見られる現象ではない。世界的にネオリベラリズム政策が推進され,それに疲弊し困窮した人々の不満や怒りを保守主義が吸収している。特に近年,保守主義は「反ジェンダー」の動きを加速,激化させている。この反ジェンダー運動は,LGBTの権利を擁護するものとしてジェンダー概念・運動やフェミニズムを攻撃し,なかでも中絶の権利は主要な攻撃対象となっている。

 

 統一教会や日本会議などの宗教右派と自民党政権との繋がりは,こうした世界的な反ジェンダーの流れの中に位置づけることができる。特に日本の場合,宗教右派が戦後,長期にわたって,政権と一体となって社会に影響力をおよぼしてきており,さらに80年代以降はネオリベラリズムとも共振して勢力を拡大してきた。

 

 さて,菊地さんの論考が収録されている雑誌は,『7・8元首相銃撃事件 何が終わり,何が始まったのか?』(河出書房新社)で,20あまりの論説記事のうち,山上容疑者の行為を肯定的に,というか一つの画期もしくは転機ととらえる論考が多かったように思う。少なくとも「暴力は許されない」とか「民主主義に対する挑戦」とか「テロ反対」といった,安直に事件を否定する論説はなく,それぞれの視点から思想的に,あるいは政治的に事件の意味を深く考察していて,好感が持てた。とりわけ,今回の銃撃事件を「行為としてのプロパガンダ」として,東アジア反日武装戦線と重ねる栗原康の考察は秀逸で,私自身,意表を突かれるものだった(白石嘉治との対談「『行為によるプロパガンダ』は『加害としての自然』を求める」)

 

 本誌の副題には「何が終わり,何が始まったのか?」とある。だが菊池さんの記事を読んで,7・8以後,何も終わっていないし、何も始まっていないことがわかった。統一教会の問題は追及されているけれども,宗教右派や自民党保守派が依って立つ基盤である伝統的な家族観にメスは入らず、少しも揺らいでいない。だから,LGBTに関する差別禁止法はおろか,理解増進法の成立すら見通せない状態だ。ジェンダーフリー的な施策の進展を阻む,安倍政権時のバッククラッシュ状態は何も変わっていないし、むしろ統一教会=自民党による家庭教育支援条例制定などのバッククラッシュ運動によって伝統的な家族観は強化されている有り様である。

 

 また,こういった家父長制的な家族が,ナショナリズムや軍国主義と深いところで結びついている点も見落としてはならないだろう。今の岸田政権が国会軽視の国家主義的色彩を強め,軍拡路線に突き進んでいるのは,家族観と決して無関係ではない。「強い国家」を作るためには,性別分業にもとづく,家長に従順な「専制的な家族」が最適なのだ。

 

 何も終わっていないが,私たちが終わらせ解体しなければならないものは明らかになった。すなわちそれは古びた家父長制的な家族観であり,それを信奉する政治勢力=自民党である。宗教右派と結びついた自民党政治を終わらせ,LGBT差別禁止法の制定をはじめジェンダー平等に向けた新たなうねりが始まるとき,個を大切にした多様な家族像が社会に遍く受け入れられていくであろう…