家族という暴力 | ブロッギン敗北【ご愛読ありがとうございました】

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アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド、ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば、水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬)
そして21世紀のいま、史上最悪のジェノサイドがパレスチナの地で、殺人国家イスラエルによって遂行されている…

 安倍元首相を暗殺した山上容疑者の行為を思想的にどう位置づけるかについて,前回紹介した雑誌(『7・8元首相銃撃事件 何が終わり,何が始まったのか?』河出書房新社)では,永山則夫(連続通り魔殺人)や李珍宇(小松川女子高生殺人事件),あるいは連合赤軍事件や東アジア反日武装戦線などを補助線として引き合いに出しながら,さまざまな角度から検討が加えられていた。その中で,私が一番刺激を受けたというか,なるほどと得心したのは山上容疑者の行為を,元陸軍軍人で映画『ゆきゆきて,神軍』の主人公である奥崎謙三の姿と重ね合わせる木澤佐登志氏の論考であった(「死後の生に対する暴力に抗して 追悼可能性と構成的暴力をめぐる諸問題」)。

 

 

 テーマは,暴力を不断に生み出す家族と国家をめぐる問題だ。山上が生きてきた家庭環境についてはすでにマスコミでたくさん報道されているのでここでは書かないが,とにかく彼は家族という「地獄」を生き抜いたサバイバーであった。一方,奥崎が戦争でくぐり抜けたのも,飢えとマラリアが蔓延して人間の肉を食うのも厭わない戦場という名の「地獄」であった。

 

奥崎謙三が一九六九年一月二日,皇居前庭において,天皇裕仁にむけてパチンコ玉を撃つ行為に及んだのも,一九八三年に,部下の兵士二人を銃殺した元中隊長村本正雄の長男に発砲し殺人未遂の罪に服したのも,奥崎にとっての戦争への総括であり,また飢えのために全滅した奥崎の戦友たち――独立工兵第三六連隊の亡霊を弔う試みに他ならなかった。

(木澤佐登志「死後の生に対する暴力に抗して」,『7・8元首相銃撃事件』河出書房新社p.212~p.213)

 

 

 

 明治以降,日本国は天皇を中心とした家族国家であり,天皇家はその他の家族のモデルとして屹立する最高の「家族」であった。それは基本的に今も変わらない。政治学者の丸山眞男は,こうした家族国家においては「抑圧移譲」という上から下への暴力の連鎖が,軍隊をはじめ日本の国家秩序の隅々にまで働いていると喝破した(「超国家主義の論理と心理」)。また,このブログでも以前紹介した臨床心理士の信田さよ子は,ミクロ国家としての家父長制家族における暴力も同様の権力による抑圧移譲であると説いた(『家族と国家は共謀する』角川新書)。日本の国家秩序に不可欠の要素として組み込まれた軍隊と家族は,抑圧移譲すなわち暴力のトリクルダウンという運動法則を内在しているのだ。

 

奥崎も山上も,方や軍隊,方や家族というブラックボックスの内部で,ある種の抑圧や暴力のトリクルダウンを被り,その過程で暴力を深く内面化した,といえよう。だが,彼らが内面に溜め込んだ暴力は,それよりも下方には移譲されなかった。それどころか遙か上方に――権力=暴力の根源に対して突如として向けられた。

(木澤,同誌p.214)

 

 

 木澤氏は,山上と奥崎の行為を,家族と軍隊という国家の暴力装置に対抗する暴力として,その意義を見いだそうとする。木澤氏がとらえる国家の暴力は,生きている国民を死に至らしめる物理的な暴力だけではない。「死者に対する根源的な暴力」もまた国家の暴力として理解されている。「死者に対する暴力」とは何か。それは,死者を追悼可能な領域から排除する国家の構造的暴力のことにほかならない。国家は、戦争や迫害,公害などによって,死んでも追悼されることのない人々を大量に生み出す。例えば靖国神社に典型的に見られるように,日本の国家は先の戦争で死んだ一人ひとりの戦死者を「英霊」という形で匿名的で抽象的な存在に祀り上げた。名前を剥奪された,英霊化・匿名化された故人を真に悼むことはできない。この追悼から排除された無数の過去の亡霊は今もなお漂っている。

 

 木澤氏は,奥崎謙三の型破りで狂信的とも見える行為が,実はこうした「暴力的な匿名化のメカニズム」に対する抵抗ではなかったか,と推断する。確かにそうだと思った。「死後の生」の復活,個人の名前の回復,要するに死者の救済こそ,戦後に生き延びてしまった者の使命だと,奥崎は深く感じていたのだろう。

 

奥崎の元中隊長村本は,敗戦の日から二四日後,東ニューギニアにおいて部下であり奥崎の戦友であった兵隊二人を銃殺したにも関わらず,厚生省へ「戦病死」と届け出ていた。生き残ってしまった奥崎の使命は,戦友の最期に何が起きたのかを知り,それを世間に告げ知らせることであり,また彼らを銃殺した元中隊長を,そして死者たちに対する道義的責任を引き受けようとしない天皇を死刑にすることであった。そうすることでしか,彼らを真に追悼することはできないと奥崎はどこかで悟っていたのではないか。

(木澤,同誌p.216)

 

 ところで,安倍が銃撃されて死んだ時,私が強烈な違和感というか反発を覚えたのは,反安倍の人たちからも,「ご冥福をお祈りします」といった追悼の言葉が溢れたことだ。このように,家族親類縁者や支持者だけでなく,アンチからも大々的に追悼される政治家が存在する一方で,先に述べたような,国家暴力的に追悼可能性から排除された夥しい数の亡霊もまた存在する。この弔いをめぐる非対称性・ねじれこそ,戦後日本に突き刺さった構造的な問題であろう。だから私は安倍に対して追悼の言葉を絶対に書かないし,先の戦争で死んだ多くの人たちに対して道義的責任や真摯な反省・謝罪を引き受けようとしなかった安倍を絶対に許さない。奥崎が天皇や田中角栄に対して抱いたのと同じ抵抗感・敵意を,私は安倍に対して持っている。

 

 ミニ国家である家族の暴力についても,国家とのアナロジーで同様のことが言えるだろう。すなわち,家族の暴力とはDVや虐待,ネグレクトといった,家族内での身体的・精神的な暴力だけではない。女性差別やLGBT差別,夫婦別姓・同性婚への反対といった制度的・構造的暴力もまた,伝統的家族は内在している。今回のLGBT法案に対する自民党のしつこい反対も,ネオリベラル家父長制を背景とする構造的暴力にほかならない。山上の行為は,このような暴力を不断に生み出す国家=家族システムに抗する暴力として位置づけられるべきであろう…