『原理主義から世界の動きが見える』(PHP新書) | ブロッギン・エッセイ~自由への散策~

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アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド,ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば,水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬編『証言 水俣病』)

 

 上の動画の冒頭で,宮台が「アメリカは宗教原理主義的な国家である」と言っていて,その後の話の展開に期待したのだが,普遍主義的リベラリズムとか,それを主張したロールズのことに話が移ってしまって,いまいち米国における宗教原理主義とリベラリズムとの関連がよくわからなかった。学者なら,もうちょっと論理的にわかりやすく解説しなくちゃいけない。というか,ここでの宮台のトークは、アメリカは宗教原理主義の国だから、キャンセルカルチャーみたいな,他の国では起こらないようなことが起こる特殊な国なんだよ、というレベルの話で、「宗教原理主義」と「リベラリズム」の関連は話の主題ではなかったのかもしれない。だが宗教原理主義とリベラリズムはアメリカを解くキータームであることは間違いない。今日は,宮台の「アメリカは宗教原理主義的な国家である」という発言を,私なりに深掘りして考えてみたい。

 

 もともと「原理主義」という言葉を生み出したのが米国のキリスト教であることは,よく知られている。掲題の本によると,その米国キリスト教原理主義のアナロジーとして,さまざまな変質や歪みを伴って,イスラームやユダヤ教などの一神教に原理主義が波及していったようだ。本書は,3つの一神教(キリスト教・イスラーム・ユダヤ教)が原理主義とどう関わってきたかをたどりながら,原理主義の意義や限界を明らかにしようとしている。原理主義に対する私たちの誤解や偏見を解くには格好な著作だ。この記事も,本書に依拠しているところが少なくない。

 

 では,「原理主義」とは何か――。本書での定義に従えば,ひとまず,

近代化・世俗化に抵抗しつつ,それを超える文明的な原理を掲げる政治思想・運動

となる。ここで第一に注意すべきは,「近代化・世俗化への抵抗」という貫通的テーマであろう。そうした本質を持つ原理主義は,どうしても私たちの近代的社会や世俗社会とは対立し,私たちに強い偏見や違和感をもたらす。そして第二に,「原理」というものは,決して不変的なものではなく,時代状況の変化に応じて微妙に変化している,という点にも注意が必要だ。それは,原理主義が近代主義や世俗勢力との不断の闘いの中で自己を規定してきたからにほかならない。

 

 近代主義を代表する思想・運動としてリベラリズムがある。原理主義は近代リベラリズムとの対決の中で,その原理を鍛え直し,自らを形成してきた,と言っていい。だが,同じことはリベラリズムの側にも言えるのであって,つまりリベラリズムの方も原理主義との対立の中で自己規定してきた面がある。敵対する両者にこのような類似した思考パターンが見られるのは,ともに「普遍的な原理」に立脚しようとしているからであろう。

 

 特に一神教の場合,さまざまな原理の中の「原理」というべきものが存在している。例えばキリスト教では,諸原理の根底には「聖書」という超原理が存在するわけである。なかでも原理主義が由来するプロテスタントは,その発生の時点からすでに原理主義的であった。すなわち,プロテスタントを生んだ宗教改革自体が,聖書という「原点」に帰ることを説いていたわけで,当時の時代精神や宗教情勢に対する批判を含んだ原点回帰主義的傾向(=原理主義)は,宗教改革の時点ですでにプロテスタントに埋め込まれていたのである。

 

 だが一方で,宗教改革によるプロテスタンティズムが世俗的な社会秩序(=資本主義)や近代的な国民国家を生み出す役割を果たしたことも,これまた事実である。とすると,宗教改革に由来する原理主義は,これまた宗教改革によって生み出された世俗化・近代化や国民国家と対決している,という構図になる。いわば永遠に抜け出せない循環の中にプロテスタントは置かれているわけである。そして,原理主義はプロテスタントに運命的に組み込まれていたメカニズムといえる。

 

 じゃあ,アメリカ社会に見られる原理主義運動は,プロテスタントだけのものか。決してそうではない。アメリカで原理主義というと,すぐにプロテスタントの「福音派(エヴァンジェリカル)」を思い浮かべるが,それだけではない。カトリックの側でも,「エヴァンジェリカル」とか「原理主義者」という呼称を使うことがあるという。つまりカトリックの文脈の中でも,上記の定義のような「原理主義」というべき動向が見られるのである。とすれば,宗派や文脈は全く違えども,プロテスタントの原理主義者とカトリックの原理主義者が接近してくることは十分に考えられる。

 

 70年代以降,福音派は政治への関与を深めていったが,そのなかで中絶や同性愛の問題がプロテスタントの原理主義者とカトリックの原理主義者を結びつけたと言える。

 

歴史的にいえば,ローマ・カトリック教会は「アンチ・キリスト」(反キリスト)と呼ばれたほど,プロテスタント原理主義勢力とは明確な敵対関係にあったが,中絶や同性愛を批判するという共通の目的を共有して,リベラリズムと戦う共同戦線を張ることができた。実際,このような草の根ネットワークが全米に張りめぐらされていくことによって,宗教保守勢力は一九八〇年の大統領選挙において,保守派の代弁者としてロナルド・レーガンを勝利に導くうえで大きな役割を果たした。これ以降の大統領選挙においては,宗教保守層(宗教右派)による集票能力の大きさを,どの大統領候補も,もはや無視することはできなくなる。

(『原理主義から世界の動きが見える』PHP新書p.138~p.139)

 

 

 

 中絶・同性愛問題を通じて,教派を超えた,いわば原理主義連合が宗教右派を形成していったのである。それが大統領選挙をも左右するほどの力を持つことは,今日に至るまで変わらない。その意味で,下の動画で宮台が,2016年の大統領選挙でヒラリーが負けた原因は中絶問題だったと指摘していること自体は正しい。

 

 

 さらに言えば,宗教右派(キリスト教原理主義)は,中絶・同性婚以外にも,進化論,フェミニズム,所得再分配の強化,手厚い福祉政策,マイノリティの権利擁護,相対主義,寛容,政教分離といった,リベラルな政策や価値観に反対することが多い。つまり,リベラリズムを共通の敵とし,「プロ・ファミリー」(家族擁護派)や「プロ・ライフ」(生命擁護派=中絶反対派)といった価値観を共有する者たちが,宗教や教派を超えて連帯した幅広い運動体が,今日のアメリカの原理主義(宗教右派)の実態なのだ。ヨーロッパや日本には見られない,このような宗教右派の存在が,アメリカ社会のダイナミズムの源になっていると言えよう。

 

 宮台は冒頭の動画で「アメリカは宗教原理主義的な国家である」と言ったが,その意味は,まずは近代リベラリズムとの関連でとらえられるべきであろう。動画を観る限り,どうも宮台はその点にはあまり関心がなくて,アメリカはリベラリズムからキャンセルカルチャーが生まれる特殊な国だということを言いたいがために,枕詞として「アメリカは宗教原理主義的な国家」と言ったようだ。

 

 宮台のことはともかく,いくら近代化や民主化が進み,リベラリズムが社会に広く浸透したとしても,米国で原理主義的な動きがなくなることはない。むしろ,そうした世俗化への反発・反動として原理主義は存在し続ける。だから原理主義との共存を図りながら,いかに勢力を拡大していくかが米国リベラル派の戦略の要になってくるのではないか――。

 

 その意味では,どんなに科学が進んだとしても,アメリカ社会から原理主義的な動向が消滅することはないだろう。…同様のことは,今日の国際政治に関してもいえる。

 宗教が深く関与する地域紛争のなかで,原理主義的な思想や運動は危険視されている。…しかし,世界の民主化やグローバリゼーションを進めることによって,原理主義が消滅することはありえない。いやむしろ,そうした変化に対する反動として原理主義は存在し続けるだろう。

 原理主義は,ときとして人類の身体を蝕む病巣ともなるが,それは摘出不可能な身体の一部でなのであって,それとの現実的な共存の可能性を探っていくなかでこそ,人類の英知が試されることになるのである。

(同書p.160~p.161)

 

 

 ついでなので,本書についての感想も簡単に述べておきたい。本書には「世界の動きが見える」という大仰なタイトルが付いているが,そのタイトルが決して大げさでないことが読むとわかる。まさに「原理主義」は,アメリカだけでなく,世界の動きを読み解くためのキーワードだ!と思った(かなり確信に近い)。本書の著者は,キリスト教・イスラーム・ユダヤ教の専門家3名で,1章毎にそれぞれの一神教の立場から原理主義が語られる。さらに第二章では,アメリカ宗教史の専門家が加わって,4名での座談会の様子が収められている。

 

 「原理主義」というと,日本では,特に9.11以降はイスラム過激派と結びつけられ,「暴力」「テロ」「不寛容」「独善的」「自然破壊」といった否定的なイメージで語られるが,そういった単純で一面的なイメージだけではとらえきれない,多面性や奥行きの深さといったものを「原理主義」という言説は持っている。著者の一人,小原克博氏は,「複雑な事象をわかりやすいレトリックに落とし込もうとする誘惑に対する『抵抗の書』としての性格」を本書は有している,と述べている(本書p.287)。だから本書の内容も,決して易しくない。何度も読み返さないと理解できないところも多い。そのように原理主義の難しさ,複雑さ,奥深さを知るだけでも,本書を読む意味があるのではないか,とも思った。

 

 上記の原理主義の定義(近代化への抵抗と超越)からすれば,原理主義は決して一神教の専有物ではない。本書で紹介されているように,日本も原理主義の歴史をたどってきたし,ガンディーの非暴力抵抗運動も,西洋支配に対する一種の原理主義的運動であった。今日はアメリカのキリスト教原理主義にしか触れられなかったが,イスラームもユダヤ教も原理主義の観点から見ると,それまで見えなかった本質的な問題が見えてくる。そうした一神教世界を中心に,世界の諸地域の動きをとらえるのに原理主義の理解は欠かせない。

 

 多神教の伝統が長かった日本では,近代化を成し遂げようとして,一神教的な世界をモデルとした天皇信仰(=国家神道)に行き着いた。だが,それは多神教的な装いを持ったエセ一神教であり,欧米のキリスト教のような一神教では決してなかった。戦前そのエセ一神教が暴走し,結局,第二次世界大戦の「敗戦」という形で一つのピリオドを打つ。そういう全体主義的な動きにストップをかけようとしたのは,保守的なキリスト教グループであったり,マルクス主義者であったり,つまり外来の一神教的な原理・理念に立脚した人々であった。日本の多神教的な伝統からは,そういう抵抗運動は出てこなかった。そうした日本の原理主義的な歴史や動向を踏まえて,私たちは一神教や原理主義をもっと深く理解していく必要がある,と本書を読んで強く思った。

 

 最後に余談だが,先日,下の動画を観ていると,1:06:00ごろからヤマザキマリと島田雅彦が,死んだ母親の骨を食べるという行為をめぐって,「イスラム原理主義」のようだと言っていた。悪意や差別的意図はなかったと思うが,二人のようなリベラルな文化人・知識人でも,「狂信」「独善」「権威主義」といった偏ったイスラームのイメージに残念ながらとらわれている。また,<原理主義=悪>という偏見にも縛られている。イスラームに対する蔑称である,こういう用語は使うべきではないだろう。「イスラム原理主義」という言葉に投影された「狂信的」とか「不寛容」といったイメージは,むしろ,その語を使う私たちの世俗社会を特徴づけるものなのだ…