東大神話 | ブロッギン敗北【ご愛読ありがとうございました】

ブロッギン敗北【ご愛読ありがとうございました】

アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド、ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば、水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬)
そして21世紀のいま、史上最悪のジェノサイドがパレスチナの地で、殺人国家イスラエルによって遂行されている…

 前回取り上げた上野千鶴子さんの祝辞については,賛否両論というよりは大半が賞賛といった印象を受ける。批判的な意見はあっても,東国原英夫の差別的な自己責任論など,核心からズレた下らないものがほとんどであった。上野さんは性差別の問題や努力が報われない社会のことなど個別的には大事なことを指摘していたと思うのだが,私が非常に危うく思ったのは,その感動話の裏にある彼女の体制迎合的,現状追認的な態度なのである。保守的態度と言ってもいい。努力が公正に報われない社会の仕組みや環境があるのなら,それを変えないといけないはずだが,そのことをはっきり言わない。

 祝辞をよく読んでみてほしい。恵まれた環境や恵まれた能力のある人が恵まれない人たちを助けなさいと言っているだけなのである。そういうノブレス・オブリージュも必要だ。だが,そういう上からの自発的・恩情的な行為に頼るだけでいいのか。今の不公正で差別的な社会の仕組みや環境を根本的に変えないとダメなんじゃないのか。そういう今の体制や権力のあり方に対して弱者の側から楯突こうとしないところに,上野さんの特徴というか限界がある。

 上野さんは,安易な自己責任論に陥ることなく,不公正な社会や環境があるとせっかく大切なことを指摘しながら,結局,東大出の恵まれた人間が恵まれない人たちを助けてあげるという,エリートの自己責任というか自己満足の話に終わっているのである。今ある国家体制や東大権力に寄りかかっているから,それを根本的に変えようという方向には行かない。したがって「弱者は弱者のままで尊重されるべきだ」とか「平等に貧乏になりましょう」という主張になるわけである。前回も指摘したように,こういう上野さんの言説は体制側や保守層にとって大変都合のいいものである。

 社会的弱者は弱者としてではなく,人間として尊重されるべきなのだ。貧乏人は貧乏のままではなく,人間の尊厳を回復した生活をすべきなのだ。それを言えない上野さんには,しっかりとした批判を加えていかなければならない。強者や富者を批判せず,弱者や貧者にだけ説教を垂れるというのは御用学者の典型パターンであろう。

 こうした上野さんの言説の根底にあるのが,東大中心のエリート意識とナショナリズムである。そういう意識や心性が根っこにあるから,東大も国家権力も批判できない。そしてそれが,慰安婦問題で日本の国家を擁護するような歴史修正主義の主張につながっているのである。慰安婦問題で上野さんを批判していた人たちも,今回の祝辞についてはそれとは切り離して賛辞を送っているようだが,私は両者はつながっていると思う。

 上野さんの祝辞への反響を見て,いまだに日本には「東大神話」が生きているのだなあと思えてならなかった。日本の原発推進を世論のところで支えた原発の「安全神話」というのも,実のところ東大神話であった。東大は原発推進派の最大の拠点であり,原発推進機関でる。東大の偉い先生が「原発は安全だ」と言うからなんとなく市民は信じてしまった,という面は間違いなくあった。原発の危険性を訴える市民がいても,東大の先生の方が正しいとなる。福島の原発事故後には、いわゆる「原子力ムラ」が批判に晒されたけれども,その裏に控えている東大の組織的責任はさほど問題にならなかった。東大は原子力ムラの「虎の穴」的な存在だったのに…。原発の本丸として討つべきは東大なのである。

 だから私は,上野さんが今回の祝辞で言った「東大は拓かれた大学です」という言葉に,思わず虫唾が走った。戦後,東大の工学部原子力工学科は国策の原発推進に協力し,原子力業界に人材を送り込んできた。同時に,原発に対する反対者・批判者は徹底的にパージしたのである。そのあたりの事情は,佐々木力『東京大学学問論』(作品社)に詳しい。その筆者の佐々木さんも,一貫して反原発の立場をとってきたがゆえに東大を追放され,日本の学界からも排除されるという憂き目を見た。

 そんな東大を「拓かれた大学」とよく言えるなと思うわけである。今も東大の立派な先生たちは放射線による内部被曝の影響を否定するのに躍起で,福島の帰還促進に手を貸しているわけだが,そういうインチキ学者が多数いることは決して言わない。もちろん東大入学式で原発のことなど言う必要はないのだが,こういう腐った権力組織である東大を「拓かれた大学」などと言えるセンスを,私は疑う。そういうセンスだから東大の改革・解体という話に発展しない。そのような腐敗した体制を変革しない限り,性差別をはじめさまざまな問題も解決には向かわないのではないか。前回「太った豚になるよりは,痩せたソクラテスになれ」という言葉を書いたが,東大解体といった内部批判を言えるのが「痩せたソクラテス」であろう。上野さんの祝辞は,「あなたたちは選抜されてここに来ました」と言って選民意識を増長させ,国家や東大権力に忠実なぶくぶく「太った豚」になりましょうという話に聞こえてならないのである。

 東大の入学式で性差別の問題を取り上げたこと自体が画期的なことなのだろうが,そこだけを見て全員が拍手喝采というのも思慮が浅いというか,その裏にあるエリート意識やレイシズムという本質を見落としてしまってはまずいと思う。それも「東大神話」の為せる技なのだろう。まあその神話を一番信じているのは上野さんであるわけで,結局のところ東大万歳,ナショナリズム万々歳という自らの思想本性を晒した祝辞だったということでしょう...。


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