上野千鶴子さんの祝辞へのちょっとした違和感 | ブロッギン敗北【ご愛読ありがとうございました】

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アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド、ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば、水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬)
そして21世紀のいま、史上最悪のジェノサイドがパレスチナの地で、殺人国家イスラエルによって遂行されている…

 先日の東大入学式での上野千鶴子さんの祝辞が素晴らしいと話題になっていたので,全文を虚心坦懐に読んでみた(「平成31年度東京大学学部入学式 祝辞」)。ちょっとどうなんだろうと疑問に感じるところがあったので,それをここにメモ書きしておこうと思う。

 大学での性差別の問題や公正に報われない社会・環境のことを述べていたところは特に違和感なく読めたのだが,後半になってボロが出たというか,自身のエリート意識や保守的な考え方が露呈したようで,そこにちょっと違和感を覚えてしまったのである。

 前半で,「大学に入る時点ですでに隠れた性差別が始まっています。社会に出れば、もっとあからさまな性差別が横行しています。東京大学もまた、残念ながらその例のひとつです」と言っておきながら,後半で「言っておきますが,東京大学は変化と多様性に拓かれた大学です」と言い出し,在日韓国人や高卒や障害者の教授がいることを誇らしげに語る。しかし,そういった例は別に東大に限ったことではなく他の大学や企業でもあるわけで,このように在日の人や障害者をいかにも「特別な存在」と見てアピールしようとする上野さんの態度や意識に私はまず抵抗を覚えた。

 こんな例だけで,性的暴行事件を犯した学生のいる東大が簡単に「拓かれた大学」に変わってしまうのだろうか。直後の「あなたたちは選抜されてここに来ました」という発言にも違和感を覚える。東大生だけを選ばれた「特別な存在」として見ているわけで,東大生のエリート意識を助長するものであろう。上野さんにとってはやっぱり東大はエリートだけが通う特別な存在なんだね。まあ,東大の入学式だからそれでもいいのだろうが,東大生や東大OB 以外の人たちが上野さんの祝辞を絶賛しているのを見て,東京大学に抱く劣等感や「東大生はすごい」というエリートに媚びへつらう感覚態度がまだ根強く残っているのだなあとちょっと残念に思ったのである。

 そして私にとって極めつけな違和感は,フェミニズムについて述べた部分。すなわち上野さんは「フェミニズムは弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想です」と言っているのだ。「弱者が弱者のままで尊重される」とは,仲間内で語り合うには耳に心地よいのだが,こういう考え方ってどうなんだろうと思うわけである。フェミニズムの定義はどうでもいいのだが,これは体制側からすれば大変都合がいい考え方であろう。だって弱者が弱者のままでいてくれるのだから,弱者の保護や救済などの社会政策に力を入れなくてもいいのである。こんな主張が弱者の側から出てくることほど,権力側(安倍政権!)にとって都合のいいことはない。「弱者は弱者のままでいい」と,国立大学という国民の税金で成り立つ公的機関で公式にコミットメント(約束)してしまったのである。それは同時に,弱者側にもそう説得したことになるだろう。私は上野さんが老獪,狡猾な御用学者に見えてしまって仕方がない。

 過去にも上野さんは「平等に貧乏になりましょう」という発言をしていた。これも権力側の棄民政策を弁護するような発言であろう。脱成長主義自体はよいのだが,貧乏人や弱者の置かれた状況をあまりにも美化してしまっているところが問題なのである。貧乏な生活とは本来,「平等に貧乏になろう」と言えるほど生やさしい状況ではないだろう。家族や友人を自分のような切羽詰まった貧乏生活や虐げられた環境に置きたいとは思わないはずだ。

 少なくとも上野さんの立場は改革や変革を促すものではない。反動的とは言えないかもしれないが,多く見積もっても現状維持的,保守的である。努力が報われる環境が大切であると言うなら,現状維持ではダメですよね。弱者や女性の立場を尊重すると言うのなら,社会や環境を変革しないとダメだと私は思う。上野さんは本当に弱者の立場に立っているのか,甚だ疑問なのである。今回の祝辞を読んでも,上野さんのエリート意識や差別的な視点が所々に現れていると言わざるを得ない。それが慰安婦問題で日本の国家責任を問おうとしない上野さんの微温的な態度にもつながっているのだろう。

 体制側にとって都合のいい女性学者だから東大も入学式に呼んで祝辞を言わせたのではないか。穿った見方だと叱責を受けるかもしれないが,率直に個人的な感想を述べてみた。こんな見方もある,といった程度で読んでいただけたら幸いです。


 ところで,東大の式辞や祝辞と言えば,もう半世紀くらい前の話だが,私は個人的には大河内一男総長の卒業式での式辞が今も好きだ。有名な話なので言うのも憚られるのだが,ジョン・スチュアート・ミルの文章をもじった
太った豚になるよりは,痩せたソクラテスになれ
という言葉だ。反知性・無教養や強欲資本主義が蔓延る今の時代こそ,こういう警句を大学生に向けて発してほしいと思うのだが,ぶくぶく太った御用学者しかいない大学ではこういう発言をする人はもう皆無なのかもしれない。

 結局この文言は,式辞の原稿にあっただけで,実際の式では言われなかった。当時の御時世ではいろんな反響を考慮して,言うのをやめたのだろう。だが実は,大河内一男はそれ以前に専修大学の学長をしていたときに,この言葉を卒業式ではっきり述べているのである。「ソクラテスになれ」を東大の卒業生だけに言ったのなら,そのエリート主義を指摘されても仕方ないが,いわば一流とは言えない普通の大学の卒業生に向けてこの言葉を贈ったことに,大河内一男の懐の深さを感じる。わざわざ「弱者,弱者」と言わなくても,「痩せた」という言葉の中に,恵まれない人や虐げられた人々への共感が込められているようで胸に刺さる。

 なお,ジョン・スチュアート・ミルの元の文は「満足した豚であるより,不満足な人間である方がよい。 同じく,満足した馬鹿であるより,不満足なソクラテスである方がよい」であった(ミル『功利主義』より)。「満足した」を「太った」に,「不満足な」を「痩せた」にそれぞれ変えたところに,経済学者としての大河内一男のセンスと時代の課題を見ることができる。