『新潮』12月号を読む | ブロッギン・エッセイ~自由への散策~

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アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド,ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば,水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬編『証言 水俣病』)

 ちょっと古い話で恐縮なのだが,先月私は『新潮』12月号の「差別と想像力」という特集について感想を書いた(岸政彦「権威主義・排外主義としての財政均衡主義」(『新潮』12月号))。最近,その同じ特集についての批評が『週刊読書人』に載っていて,私の記事との比較で興味深かった。それは,作家・綿野惠太さんの書いた「『ポリティカル・コレクトネス』の汚名――特集「差別と想像力」『新潮』12月号を読む」という書評記事である。


※ウェブ版はこちら→https://dokushojin.com/article.html?i=4692

 綿野さんは「『LGBTは生産性がない』発言をめぐる言説全体においても,千葉雅也だけが唯一読まれるべき発言をしていたように思う」と述べて,千葉氏の言説を絶賛するわけだが,私の評価とは全く対照的で面白い。私は,あの特集記事の中で千葉雅也だけが唯一読むに値しない記事だと思ったのだが,まあ,綿野さんとしては,千葉さんが「脱コード化」とか「脱領土化」といったドゥルーズ=ガタリ的な概念を使って差別問題を論じているところが気に入ったのだろう。だが,ドゥルーズ=ガタリを持ち出すまでもなく,資本主義と国家という観点から差別主義を分析する言説はそれほど目新しいものではないし,しかも千葉さんは杉田論文を国家のもがきとして位置づけながら,結局,自らが「平成」という天皇制国家の論理に取り込まれているわけで,やれやれといった感じを私は受けてしまうのである。

 綿野さんは上記の記事の中で,「ポリティカル・コレクトネス」は「階級闘争(=古臭い左翼)」と「反差別闘争(=新しい左翼)」の二つに対する「汚名」であるとして,今,左翼は「経済と差別というふたつの不平等と同時に闘わなければならない」と述べている。そして,「『ポリティカル・コレクトネス』という汚名を真に肯定することが左には求められている」とも。その「不平等に対する闘い」のリーダー的存在として千葉さんを見ているようなのだが,どうもそこに綿野さんの錯覚というか誤読があるのではないか,と私には思える。

 千葉さんが書いた別のものを読んでいると,この人の貴族主義というかエリート臭が鼻につく。それが最も顕著に出ているのが,彼の憲法観であろう。千葉さんは前に,國分功一郎さんとの対談で,東浩紀の作った憲法草案における上院(=貴族院)構想に概ね賛同していた。その貴族院的な発想に,千葉さんの憲法観というか,その戦前回帰的な立場がはっきり表れていると思うわけである。

 戦後憲法の考え方では,政府は人々の信託(=社会契約)に基づいて成立し,人々の権利を保障する役割を負っている。つまり,政府は人々から基本的人権を守るように求められて成立しているわけで,万一政府がその国民の負託にこたえられなくなれば,政府としての正当性を失うことになり,人々はそのような政府を打倒する権利をもつ。政治思想的に見れば,これはジョン・ロックの社会契約論的な世界である。

 戦後憲法の思想的背景から考えると,政府が成立する根拠というのは個々人の人権をひたすらに守ることにあるわけである。そのことは特に憲法11~14条に最もよく表れている。例えば第11条では基本的人権は「侵すことのできない永久の権利」と規定され,また第13条では「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については・・・立法その他の国政の上で,最大の尊重を必要とする」と書かれている。国民の権利を「侵すことのできない永久の権利」として最大限に尊重をしない政府は,その時点でアウトなのである。そういう社会契約で成立しているのが,日本国憲法が想定する政府である。

 そして第14条で例の「法の下の平等」を規定しているのだが,今日の議論で特に重要なのは,その2項で
華族その他の貴族の制度は、これを認めない
と念押ししている点なのである。どうしてわざわざこういう当たり前とも思える条文を書き加えたのか。言うまでもなく,この条項が念頭に置いているのは,戦前の大日本帝国憲法下で温存された貴族制や社会の不平等・差別である。万人の平等や人権を保障するためにも,この条項はどうしても加えなければならなかったのである。それは思想的に見ると,ロック的な社会契約論からの要請でもある。それほどに重要な,現憲法の根幹部分を,東さんや千葉さんたちは壊してしまおうとしているのである。戦前の華族のような貴族階級や「上院」などを設けることで人々を分断・階級化した身分制社会を復活させたいわけである。

 第11~14条の人権条項と,それを支えるロック的な社会契約論は,現憲法の絶対に譲ることのできない根幹部分なのだが,そこを東さんや千葉さんは破壊しようとしているのであり,それは人々の権利を奪い取ることと同値である。「貴族制は認めない」とわざわざ憲法条文で念押ししているにもかかわらず,東さんや千葉さんは貴族院の復活を唱えて,「法の下の平等」を実質的に破壊しようとしているわけである。そういう意味では,東さんら日本のポストモダニストたちはアベ政権と同次元の改憲論者であり,戦前回帰の流れに棹さす御用学者であると言ってよい。

 基本的人権の保障こそ戦後憲法の要であり,また近代国家の大前提である。日本に移入されたポストモダンが近代を懐疑する場合,「個人の尊厳」とか「人権」といった憲法の基本条件を疑い,そこに闘いの照準を定めたわけで,最初からピントがずれているのである。つまり人権や個人を否定することこそがポストモダン,近代以後の条件となる。少なくとも80年代以降,日本社会で人権軽視や憲法改正の流れが形作られたのは,前に紹介した右翼勢力(日本会議!)の台頭だけでなく,ポストモダン思想の影響が大きかったことは疑いない。だからその手の言説はしっかりと批判しておかないといけないのである。

 千葉さんの所説の背後にある,このような貴族的で反平等的な立場を知れば,彼のLGBT論も注意が必要である。何かきな臭い差別主義を孕んでいるような気がするわけである。差別は国家権力が組織されるとき,暴力とともに生み出される。その意味で暴力=差別との闘いとは国家権力との闘いでもある。だが千葉さんは,その点の認識が曖昧というか,ちょっと甘いわけで,グローバル資本主義の脱コード化によって差別は自然的に解消されていくであろうという唯物論的な見方を示しているのである。それは「人類史の趨勢」であるとも言っている。また,リバラル派の寛容な主張は資本の論理と共犯関係にあるという指摘は的確だが,経済的な搾取だけを問題にして,国家権力の暴力と差別は「脱コード化」によっていずれ解消される運命にあるとして楽観的な見通しを示している。そんな生ぬるい認識だから,東さんの「上院」(=貴族院)構想に安易に賛同してしまうのであろうし,国家権力に簡単に取り込まれて「平成最後の~」というナイーブな言説になってしまうのである。だから,杉田水脈などの差別主義的な言論も,たかだか国家の「もがき」にすぎないと映るのだろう。

 このような千葉さんの貴族主義的でポストモダニズム的な言説を見ると,綿野さんのように「不平等との闘い」で千葉さんに期待するのは全く的外れであることがわかる。また綿野さんが,千葉さんを評価する一方で,他の論者を「ヘイトに対するヘイト」だと批難している点も筋違いである。どうも綿野さんの言説も,ポストモダンにかぶれて,差別問題の本質を覆い隠す詭辯のように思えてくる。差別への抗議という普遍的な価値を「ヘイト」として否定しているわけだから。

 その点では,『世界』12月号に載った二階堂友紀さんの記事「『対話』論の陥穽――差別をはびこらせる言説とは」の方が至極真っ当なことを言っている。すなわち,「上から目線」とか「正しさの押しつけ」だとしてLGBT差別への抗議を否定する態度こそが,差別を温存するのだ,と。差別に対する抗議を「ヘイトに対するヘイト」とする綿野さんの議論も,差別をはびこらせている構図の中にある。

 明白な差別に対する抗議の総体に「バッシング」「糾弾」「ののしり」といった批判が向けられる時,差別ははっきりと否定されにくくなり,何が差別なのか不明瞭になる。(二階堂友紀「『対話』論の陥穽」,『世界』12月号p.232)

 差別への抗議が「バッシング」と言い換えられ,マイノリティの権利主張が「正しさの押しつけ」と感じられ,マジョリティが実態に見合わない脅威の感覚を抱く時代にあって,私たちは差別を明確に否定し,人権を守ろうというテンプレートこそ再確認すべきではないのか。(同誌p.235)




 同じ『世界』12月号には,斎藤貴男さんも『新潮45』問題で寄稿しているのだが(「体験的『新潮45』論――保守論壇の劣化の軌跡」),こっちは『新潮45』の休刊を納得できないと述べていて,ちょっといただけない内容であった。保守論壇や雑誌ジャーナリズムの再生のためにも,新潮社は『新潮45』を再刊すべきだという趣旨の記事なのである。休刊(廃刊)は出版社として責任放棄だという,よくある意見だが,どうもこういうことを言う人は,今回の『新潮45』問題の深刻さがよくわかっていないようだ。『新潮45』がやったことは,二階堂さんが言うように「言葉の暴力」ではない。あれは暴力そのものなのである。

 差別の前には,現実の血が流れている。差別をめぐる議論をもてあそんではならない。(二階堂「『対話』論の陥穽」,『世界』12月号p.236)


 私は,斎藤さんの意見とは違って,新潮社は,雑誌ジャーナリズムの再生などという大義名分を掲げて,右傾化した大衆に迎合したオピニオン誌や総合雑誌を出すのではなく,文芸誌プロパーで行けばいいと思っている。そう思ったのは,『新潮』12月号をじっくり読んでみて,素晴らしく充実した内容だったからである。今日は本当は,特集記事「差別と想像力」以外の,『新潮』12月号に載った作品や評論について紹介したかったのだが,綿野さんの記事に触発されて,『新潮45』問題の話が長くなりすぎてしまった。

 その月刊誌『新潮』を私は時々買って読むのだが,なかでも最近では文化人類学者・今福龍太さんの連載記事「新しい宮沢賢治」はレベルが高くて,いつも唸りながら読んでいる。12月号の「第八回 終わらない植民地」では,人間存在の本質的な「植民地」性を描き出す「終わりのない物語」として,賢治の作品を解釈していて,感銘を受けた。また,四方田犬彦さんの「数多くの〈五月〉の後に」は,1968年から50年の今年,フランス・パリでの3つの展示会を見て,街や人々が回顧的情熱に満ちていることを,日本とは対照的な現象としてルポしている。そこにはすでに「黄色いベスト」運動の予兆が表れていて,興味深かった。

 展示の隣の部屋では,「68年5月をふたたび」という標語のもとに,美大生たちが子供たちを集め,集団でポスターを制作するというワークショップを開催している。日本の美術館では,学芸員がこのような自由でアクチュアルな発想をすることは許されないだろう。(『新潮』12月号p.192)

 その他,ヘミングウェイ未発表小説や,高橋源一郎の小説だかノンフィクションだかわからない,昭和天皇を題材にした「ヒロヒト」もなかなか面白かった。社会学者・岸政彦さんが書き下ろした中編小説「図書室」は,子どものころに妄想した人類滅亡後の世界を,まぶしい思い出とともに切り取った不思議な作品。ほかにも文学評論,言語学・哲学,各種書評など,読んでいて飽きない。私は,『新潮45』のようなオピニオン誌は要らないと声を大にして言いたいが,このような文芸誌『新潮』は社会に必要だと思う。1月号は東浩紀さんが書いているので買わないが,2月号では今福さんの連載がまた載るので買おうと思う。

 ところで,斎藤貴男さんは『世界』12月号で,ブラッドベリの小説『華氏451度』から「大衆そのものが自発的に,読むのをやめてしまったのだ」というくだりを引いて,スマホが普及した現代社会にそのまま当てはまるとし,新生『新潮45』や「ノンフィクション再生プロジェクト」を手掛けてもらいたいと言っているのだが,大衆に本を読ませるためなら,どんなに低俗で差別言語に満ちた雑誌でも出していいということか。ブラッドベリが描いたのは,そんな瑣末な雑誌ジャーナリズムのことではなく,テレビによる文学の破壊,文化全体の崩壊というスケールの大きい話である。つまり,広い意味での文学,文字・活字を読んで,知性を取り戻すということがテーマであったはずだ。それをチンピラ雑誌休刊の話と結びつけて矮小化し,『新潮45』の復刊を訴えるとはとんでもないすり替えだ。『華氏451度』の趣旨に沿って言うとするなら,『新潮』のような文芸誌こそ読まれるべきなのである...。