今回,「新潮45」問題を契機に,文芸誌として差別と文芸の問題について考えるため,本特集を企画した。七人の寄稿者による真摯な発言が,七色の虹のような言論の多様性を生むことを願う。(本誌p.111)
7人の寄稿文を全部読んでみたが,差別的言説と表現の自由の関係,小説の言葉,文学のあり方などについて,それぞれ大変示唆に富む考察・所見であり,日本の文学や出版に対する危機感は7人に共通していたように思えた。
私の考えでは,文学とは猛毒を薬に変えて差し出す表現です。・・・作家は何が言葉の暴力で何が表現なのか,よく知っておかねばなりません。文学の業界,出版の業界が,そういう現場の感覚にうとくなっていることが,「新潮45」の問題を許した一因であると思います。・・・自分たちの行う表現が,誰をどう傷つける暴力になっているのか,無自覚のままでは,「表現の自由」を口にすることはできないのです。
(星野智幸「危機を好機に変えるために」,本誌p.115~p.116)
(星野智幸「危機を好機に変えるために」,本誌p.115~p.116)
理解しようとすることは重要だが理解できるはずだと思い込むことは危うい・・・
今は,平穏に生きていくこと,ただそれだけのことを脅かされている人たちの思いを,様々な方法で知ることができる。・・・今の自分に必要なことは,それらの言葉を聴くこと,読むことなのかもしれない。
(柴崎友香「言葉のあいだの言葉」,本誌p.143)
今は,平穏に生きていくこと,ただそれだけのことを脅かされている人たちの思いを,様々な方法で知ることができる。・・・今の自分に必要なことは,それらの言葉を聴くこと,読むことなのかもしれない。
(柴崎友香「言葉のあいだの言葉」,本誌p.143)
私は,差別が見えない街で育った。
(中略)
小説は学生時代の私に「見えない世界」の外にある言葉を与えてくれた。せめて,想像し続け,知り続け,「見えない世界」の外まで人生を拡張し続けることが,「差別者」だった自分に出来る唯一のことであると思う。
「見えない世界」は「安全な地獄」だ。・・・いつか,「見えない世界」の外へ本当に辿りつけることを,心の底から願っている。それが,私が本当に,この「安全な地獄」の外へ出ることができる日なのだと考えている。
(村田沙耶香「『見えない世界』の外へ」,本誌p.145~p.148)
(中略)
小説は学生時代の私に「見えない世界」の外にある言葉を与えてくれた。せめて,想像し続け,知り続け,「見えない世界」の外まで人生を拡張し続けることが,「差別者」だった自分に出来る唯一のことであると思う。
「見えない世界」は「安全な地獄」だ。・・・いつか,「見えない世界」の外へ本当に辿りつけることを,心の底から願っている。それが,私が本当に,この「安全な地獄」の外へ出ることができる日なのだと考えている。
(村田沙耶香「『見えない世界』の外へ」,本誌p.145~p.148)
なかでも私の印象に強く残ったのは,社会学者・岸政彦氏が掲題の論説の中で書いていた「緊縮文化」という言葉だ。「もう国にはお金がない,よって国民に支出する余裕はないから,国民は自分のことは自分でやれ!」という緊縮財政の考え方や政策方針が,いまや文化になってしまったようだ。
負担を共有することの断固たる拒否,他者に対するあからさまな敵意,世界のすべてを勝ちか負けで判断する態度,こういうものの中心にあるのが,もうこの国には・・・お金がないんです,という強固な信念で,この信念がさまざまなヘイトスピーチや自己責任論を生み出して,全体として緊縮文化とでもいうべきものができあがってしまった。あるいは逆に,・・・お金がないんだよ,という大義名分があれば,私たちはいくらでも他者を,弱者を,少数者を殴ることができるのだ。(本誌p.152)
以前,私は杉田発言の政治的文脈が大切だと書いた。つまり杉田水脈が権力を背景にして差別発言をしたことを批難・糾弾したのだが,それと同時に,あの発言の根底には緊縮文化があることも認識する必要があるだろう。そのことを岸論文は的確に指摘している。
杉田水脈の駄文は,LGBTの人たちを劣った,汚れた存在としてストレートに差別するというよりは(そうした差別感情も色濃くあるのだが),そういう人たちに国のお金を使うのはやめましょう,という論理が優越していたように思える。緊縮文化が根づいてしまったこの国では,そういうロジックで主張することは同意を得やすいだろう。「国の大切なお金が―――!」と言えば,マイノリティ差別も弱者切り捨ても自己責任論も障害者虐殺も,保守・右派やレイシストの主張するものは何でも正当化される。排外主義や権威主義の背後には,実は緊縮文化が控えているのだ。そのことを踏まえて考えれば,闘うべき敵,倒すべき相手は,安倍自民党改憲案とともに,財政均衡主義(=新自由主義)だなと改めて思う。岸論文に書かれているように,財政均衡主義というのは「他者を殴るための棒」でしかない。そんな棒はへし折らなくてはいけないだろう。その意味では,『新潮45』が発売後1週間で廃刊になったことは良かったと,私は個人的に思っている。「責任逃れだ」とか「ちゃんとした検証が必要だ」という意見があり,桐野夏生さんも『新潮』の特集でそういうことを書いておられたが,私は「他者を殴る棒」は何よりへし折ることが大切だと考えるので,即時廃刊には賛成だ。
ところで,『新潮』の特集「差別と想像力」で,千葉雅也氏が『新潮45』をめぐる問題で自分が投稿したツイートを16ページにもわたって引用しているのだが(しかも千葉氏の論説だけ3段組),これにはちょっと辟易した。LGBT差別の問題に関して自分の揺れ動く複雑な思いを多くの人に知ってほしいという趣旨なのだろうが,あのように長々と引用するのはあまりにも自己顕示欲が過ぎる。もう少し自己抑制した方がいい。読む側にとっても読むに堪えないものが多かった。ツイートの引用は極力控えて,その後に添えられた論考をもう少し広げた方がいいだろう。
千葉氏の論考では,ドゥルーズ+ガタリの概念を使いながら差別問題を論じていて,小難しいことを書いているが特に目を引く主張や見方はなかった。千葉氏は,今回のLGBT差別の問題を,資本主義による「脱コード化」(経済)と,そのバッククラッシュ=「コード化」(国家)の衝突ととらえた上で,『新潮45』の差別的言説というのは,脱コード化に抗う国家のもがきであると述べている。その理解については取り立てて異論はない。上で書いた財政均衡主義,緊縮財政というのも,同じく国家のあがきと見ることができるだろう。
LGBTの差別解消,市民権獲得の流れは,グローバル資本主義による脱コード化として,もはや止められない動きだろう。脱コード化にはそういうポジティブな面があるのだが,同時に,脱コード化は資本の論理と共犯関係にあることから,差異が計数化され交換可能となって新たなビジネスの動因に転化されるというネガティブな面も持つ。そのことも千葉氏はよく理解している。だからLGBT差別も一筋縄では解決に行かないのだが,問題は千葉氏が最後の一節で言っていることなのである。
平成最後の夏に,僕は予定外に,「クィア」であることに向き合うよう強いられた。これは僕の,「平成最後のクィア・セオリー」である。(千葉雅也「平成最後のクィア・セオリー」,本誌p.141)
この人は何を言ってるんだろうと思ったわけである。『新潮45』を,解体されまいとする国家のもがきと書いていた哲学者が,最後に「平成最後の~」とか言って,国家に絡め取られている自らの醜態をさらしているのだから元も子もないのである...。
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□□ 特集 □□
差別と想像力――「新潮45」問題から考える
■危機を好機に変えるために/星野智幸
■回復に向けて/中村文則
■すべてが嫌だ/桐野夏生
■平成最後のクィア・セオリー/千葉雅也
■言葉のあいだの言葉/柴崎友香
■「見えない世界」の外へ/村田沙耶香
■権威主義・排外主義としての財政均衡主義/岸 政彦