辺見庸・目取真俊『沖縄と国家』(角川新書) | ブロッギン敗北【ご愛読ありがとうございました】

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アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド、ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば、水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬)
そして21世紀のいま、史上最悪のジェノサイドがパレスチナの地で、殺人国家イスラエルによって遂行されている…


 「一人で読み,書いてきた。文学について誰かと語り合いたいという欲求もなく,一人であることを苦に思ったこともない」(本書p.15)とは目取真俊さん。なんとなく目取真さんの精神的なバックボーンが見えてきた気がした。反基地・反戦運動のなかで,というよりは,世間から孤絶した個のなかでこそ,ああいった激しい文学が生まれてくるのだろう。目取真さんの文学というのは,すぐれて個的な世界だ。確たる単独・独立の内面世界があり,そこを出撃拠点として,誰もまねできないような感情表現や暴力描写を投げつけてくる。

 掌編「希望」の主人公もそうだった。米兵のおさなごを殺めた犯人のことである。賛否両論あるだろうが,本書「あとがき」で辺見庸さんも言っていたように,この主人公のような発想は,常人では決して出てこないものだろう。目取真さん独自の文学世界があってこその唯一無二のキャラクターである。

 「今オキナワに必要なのは,数千人のデモでもなければ,数万人の集会でもなく,一人のアメリカ人の幼児の死なのだ

 という犯行声明に衝撃を受ける。もうそこにしか「希望」を見出せなくなったほどに,追いつめられた純粋な人間の心情をこれほどまで上手く描いた作品を私は知らない。その主人公に目取真さんの心情が投影されていることは言うまでもないだろう。

 一方で,辺見さんは本書で「このようなことはおもいつきもしなかった」としながら,自分の本音は「なにをどうやっても,もうダメだ」(本書p.189~p.190)という絶望の境地であることを吐露している。

 目取真さんの「暴力」と辺見さんの「絶望」。紙一重の気がする。「希望」の主人公は絶望の一歩手前にいる。というか,絶望の中に片足を踏み入れている。暴力と絶望の皮膜の中にいて,もがき苦しんでいる。この苦悩を自らのものとして感じ取らねばと思う。この皮膜のなかの苦悩,このギリギリの崖っぷち感が,借り物ではない抵抗と批判を生むのだと思う。

 この退っ引きならなぬ皮膜上の危機感を,この「闘う作家」二人とどこまで共有できるか。それが私の最大のテーマになる。お二人とは生きている世界は全く違うけれども,ただ,目取真さんの「一人で読み,書いてきた」とか「ひとりで何日も話さなくても平気なのだ」という独立心,孤独感はとてもよくわかる。また辺見さんの「日本はもうダメだ」という絶望にも共鳴する。両者の独立した個の世界にはまだ到底およばないけれども,私はこれからも一人で読み,書き,考え,動いていく。真の連帯は,比類なき強烈な個の上に生まれてくると思うから...。


 なお,明日はここで会いましょう♪



沖縄と国家 (角川新書)/目取真 俊

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