『世界』(岩波書店)の最新号が届いたのだが,袴田さんの連載が載っていなかったのはなぜだろう。今月だけ休載ということなのか…。残念な気持ちを抑えながら,本誌を眺めてみると,掲題の記事が目に留まった。それは,掲題の筆者と日本人二人による共同研究(「日本における死刑と厳罰化の犯罪抑止効果の実証分析」)の成果,すなわち日本では死刑に犯罪抑止力を見出すことはできないという研究結果を報告するものであった。
ただし筆者も言っているように,死刑制度の是非に関する議論で重要なのは,犯罪抑止力を持つかどうかという功利主義的な観点ではないであろう。やはり人道的な見地から死刑制度の問題は判断しなければならないと私も考える。
アメリカ(一九の州が死刑を廃止),ヨーロッパ(独裁国家であるベラルーシを除き全ての国が死刑を廃止),ネパールやカンボジア,フィリピンといったアジアの死刑廃止国家においても,死刑に関する政策は,功利主義的な考えではなく,主として道徳感情と政治的発展によって判断されてきた。(『世界』9月号p.185)
殺人など凶悪犯罪を防止するのに効果がないとするなら,死刑制度をなぜ維持し,死刑執行をし続けるのか。その点こそ,真剣に問われなければならないであろう。その点に関して,筆者は次のように述べている。
日本が死刑制度を継続的に運用するに際して,最も議論が乏しいまま,最も強い力を形成しているのが復讐への欲求である。だが,復讐とはいわば未開の司法である。司法が人間的になっていくほど,法は復讐を排除する。(『世界』9月号p.185)
復讐という野蛮な司法原理を超えて,努めて人間的な見地に個人も国民も立たねばならないということであろう。ところで,こうした議論を読んでいると,近代日本ですぐれた死刑廃止論を唱えた徳富蘆花のことを思い出さずにはいられない。少し長いが,蘆花の「死刑廃すべし」から引用したい。
要するに人間には人を殺す権理(権利)はない。国家の名を以てするも,正義の名を以てするも,人を殺す権理は断じてない。
我(わが)日本国民は正直で,常に義理に立つ国民である。義理は復讐をゆるす,義理は罰をゆるす,戦争をゆるす,死刑をゆるす。
(中略)
我日本国民は死を恐れざる国民である。死を恐れぬということは長所で,同時に短所である。吾が命を惜まぬ者は,とかく人の命を惜まぬ。手取早い平均を促す種族である。暗殺を奨励する国である。刺客を嘆美する民である。一種の美はあるが,我々は今一層進歩したい。
(中略)
註文(注文)は沢山ある。まず僕は法律の文面から死刑の二字を除きたい。廃止を主張する。
我(わが)日本国民は正直で,常に義理に立つ国民である。義理は復讐をゆるす,義理は罰をゆるす,戦争をゆるす,死刑をゆるす。
(中略)
我日本国民は死を恐れざる国民である。死を恐れぬということは長所で,同時に短所である。吾が命を惜まぬ者は,とかく人の命を惜まぬ。手取早い平均を促す種族である。暗殺を奨励する国である。刺客を嘆美する民である。一種の美はあるが,我々は今一層進歩したい。
(中略)
註文(注文)は沢山ある。まず僕は法律の文面から死刑の二字を除きたい。廃止を主張する。
この蘆花の死刑廃止論の重要なポイントは,一つには,これが大逆事件という残虐非道な国家犯罪を踏まえてなされたものだという点である。死刑を国家暴力ととらえて批判する視角の芽生えが見て取れる。そして,もう一つ重要なのは,死刑制度は戦争の精神と通底しているという理解である。死刑を許すことは戦争を許すことにつながる。死刑廃止論は反戦の主張と軌を一にするのである。
こうした蘆花の主張の根幹にあるのは,生命尊重の精神,暴力否定の論理にほかならない。私はこのような人間愛や生命感の横溢する蘆花の文章が好きだ。掲題の記事はアメリカ人によるものだが,蘆花のような明治知識人の人道・自由の精神に通じるものがあって,好感をもって読んだ。
ところで,今年の8月で永山則夫が処刑台に散ってから20年になる。永山の死刑執行は,その3か月ほど前に酒鬼薔薇事件が起きて少年犯罪の厳罰化が論議された時期にあり,永山の身元引受人が辞任した直後でもあった。遺体は翌日直ちに焼却されたという。永山の死刑執行は,明らかに国家による死刑制度の恣意的な運用であり,戦後日本の最も恥ずべき犯罪行為の一つだと私は認識している。
永山自身が告発したように無知や貧困,精神的未熟が犯罪を生むとするなら,死刑制度を維持し続けるのは筋違いであろう。先に死刑制度は復讐だと書いたが,それと同時に,日本で死刑が維持されているのは,国家権力に盾突く市民を抹殺するためではないか,と私は考えている。市民を弾圧し威嚇し委縮させる暴力装置としての死刑制度の運用!それは明治の大逆事件から続いている。そのことは,例えば戦後,左翼などの政治犯,思想犯には問答無用で極刑を科すところからも窺えよう。そのようにして戦後の反体制運動や思想を抑え込んだ。永山の死刑執行は何よりそのことを示している。
永山が書いたものを読めば,彼が自らの犯した罪の重さを決して忘れることなく,それを死ぬまで背負って生きていたことがわかる。彼は書くことによって自己の存在意味を問い続け,自由を見出していった。そこには文学があった。「無知」の涙,悲しみとしての永山文学があった。永山は生きてそれを社会に発信し続ける責任があったし,本人もそれを自覚していたはずだ。戦後日本の国家権力はその文学を永山と私たちから奪い取った。永山亡き後,少年犯罪者から空虚な言葉は発せられても,本当の意味での文学は出てこない。文学のない社会が犯罪を生むのだ。暴論を承知で言えば,永山の言葉を社会に届け続けることこそが犯罪抑止につながると私は考える。死刑は個人の命を奪うとともに,社会から文学や思想も奪う。そのことを永山は教えてくれた。こんな時代だからこそ,永山則夫という存在を忘れてはいけない,その文学を残したい,と強く思う...。
東京拘置所で永山則夫君ら2名の処刑があった朝
夏深し魂消る(たまぎる)声の残りけり
夏深し魂消る(たまぎる)声の残りけり
(大道寺将司全句集『棺一基』より)
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