山岡耕春『南海トラフ地震』(岩波新書) | ブロッギン・エッセイ~自由への散策~

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アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド,ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば,水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬編『証言 水俣病』)


 読み始めたときから,どうも御用学者っぽい匂いを感じていたのだが,勉強のためと思って何とか最後まで読み通した。やっぱり御用学者だった。しかも,かなりタチの悪いタイプ。原発再稼働を押し進めたり年間放射線量が100ミリでも大丈夫だとか平気で言ったりする原子力ムラの連中もタチが悪いのだが,彼らの主張は原発推進として大変わかりやすいものである。それに対して,本書の著者はちょっとタイプが違って,手口が巧妙なのである。すなわち,原発のことは一切触れないことによって,上手く無意識的に原発安全神話を刷り込む形をとっているように思えるのである。南海トラフの大地震によって原発には何も被害が出ないかのような内容。南海トラフ地震のさまざまな影響を事細かく書いているのに,原発への影響が見当たらないのだ。一冊まるまる南海トラフ地震による災害や防災のことを書いている書物に,原発のことが少しも書かれていないとすれば,読者は,原発は南海トラフ地震によって影響を受けないか,受けても大したことはないから心配しなくていいと思ってしまうだろう。非常に狡猾というかズルイやり方である。

 正確に言うと,一カ所だけ原発に触れた箇所がある。愛媛県の伊方原発について,下の一節があるだけである。

 周知のように,伊方町の瀬戸内海側には伊方原発がある。津波の高さが相対的に低いとはいえ,油断禁物であることは言うまでもない。(本書p.116~p.117)


 「周知」のことであり「言うまでもない」から,原発への影響は書かなくてもいいのだろうか。でも,相対的に津波の低いところの原発には触れて,津波がおそらく最大規模になると予想される静岡県御前崎にある浜岡原発のことに触れない道理があるだろうか。それとも,この著者は,プレート境界=震源の真上に突っ立っている浜岡原発を知らないのだろうか。今は稼働していないから大丈夫と思っているのだろうか。大量の燃料棒や使用済み核燃料をどこかに持ち出さない限り,全電源喪失になれば福島と同じことが起こるのではないですか。しかも今,中電は再稼働に向けて準備を進めている。そういう動きを著者が知らないとは思えない。

 著者は,御前崎における津波被害について次のように書いている。

 静岡県は,海岸線全体が外海沿いであるため,津波の被害が大きくなる。さらに,南海トラフ沿いの地域の中でも震源域に最もちかいことから,津波到達までの時間的余裕がない。とくに駿河湾にはプレート境界が入り込み,駿河湾内が津波の波源となるため,伊豆半島の西側から御前崎にかけては注意が必要である。
 (中略)
 焼津から御前崎にかけても高い津波が押し寄せ,海岸沿いの平野に侵水域が拡がることが懸念されている。御前崎から西は,なめらかな海岸線で,海岸沿いに砂丘が発達しているが,高い津波はその砂丘を越え,広い範囲の市街地が浸水する場所もある。

 (本書p.110~p.111)


 南海トラフで巨大な津波が浜岡原発(3~5号機)を直撃するわけだろう。なのに,何でそのことに触れないのだろう。「言うまでもない」からなのか。もちろん原発災害をメインテーマにした本ではないから,その災害の詳しい想定は書く必要はないだろうが,だが,あたかも御前崎には原発などの危険な施設はないかのような書き方はマズイのではないか。浜岡原発で大事故が起これば,静岡県だけでなく関東や中部地方に大きな影響が出るわけで,南海トラフ地震がもたらす災害のうちで,私たちが最も関心のあることの一つが浜岡原発なのである。あんなショボイ防潮堤で大丈夫なんですか,とか,避難ルートやハザードマップはどうなってるのか,とか,いろいろと不安や疑問が尽きないわけである。南海トラフ地震について書くのなら,そういう大多数の市民の声に応えるというのが最低限の見識というものではないだろうか。この著者は,そうした見識に欠けているとしか言いようがない。市民の感覚からは大きくずれてしまってるから,こういう人は岩波新書などの一般向けの本は書かない方がいい。

 一方で,この人,火力発電所や製油所に対する被害はとても心配なのである。しかも電力不足に対する危惧を煽る。原発が必要とでも言いたいのだろうか。

 影響はその地域だけにとどまらず全国に波及する。電力については,火力発電所の多くが伊勢湾や大阪湾などの太平洋側の揺れの強い地域に立地しており,南海トラフの巨大地震による揺れや津波による火力発電所の停止を想定する必要がある。内閣府によると西日本では電力供給力が電力需要の五割程度まで落ち込むと試算している。地震直後は,工場の停止など需要も減少するため被災地以外への影響は少ないが,復旧にともなって徐々に電力需要が回復してくると供給が追いつかず,東日本大震災後のような計画停電が行われることになるかもしれない。
 製油所が被害を受けるとその影響は大きい。(中略)西日本の製油所は伊勢湾や大阪湾など太平洋側で地盤の揺れやすい場所にあるため,東日本大震災以上の被災が考えられる。その場合,被災地での燃料が不足するだけでなく,一カ月程度かけて全国に燃料不足が拡がっていく。この燃料が不足は復旧の足を引っ張る。

 (本書p.164~p.165)


 それから,この本では,南海トラフ地震で東海道新幹線が止まった場合,中央リニア新幹線がそれの代わりになってくれるみたいなことが書いてあるけれども,本当にそうなのか。リニアは地震に強い設計になっていると聞くが,走行区間のほとんどが地下であるリニアが,どこに活断層があるか分からないこの日本で本当に地震に強いと言えるのだろうか。津波には強いとは思うけれども…。 

 中央リニア新幹線が南海トラフの巨大地震発生前に完成すれば,地震時にも東西の重要な幹線として機能することが期待される。(本書p.162)


 なお,最近多くの人が関心を寄せる中央構造線について,本書で触れているのは次の付け足し的な一文のみで,しかも南海トラフとは何の関連もないかのようだ。要は何もわかっていないのだろう。

 ちなみに,吉野川はわが国第一級の活断層である中央構造線に沿って流れている川であり,徳島県は人口の多い都市がことごとく津波や地震の脅威にさらされており,十分に警戒しなければいけない県である。(本書p.115)


 このように南海トラフ地震の被害を受けるであろう私たちの知りたいことがあまり書かれていないのである。しかも,南海トラフ地震の「仕組みから防災まで,できるかぎり読みやすく解説した」と著者自身は言っているけれども,必ずしもわかりやすくない。いかにもプライドの高い学者さんが上から目線で書いたような文章。素人の立場で言わせてもらうなら,内陸直下型地震との違いをもっとはっきりさせてほしかったし,プレートの境界の仕組みや動きをもっと基本的なところから図解してほしかった。

 昨日の中日新聞・夕刊に載っていた島村英紀さんや地震考古学の寒川旭さんが書かれた地震本・火山本の方が,断然ためになる。本書は全くお薦めではない。地震予知ムラがあるのではないかと思ってしまった。それから著者を原発30km圏内に住まわせたいとも思った。そうすれば,もう少しまともな本が書けるだろうから...

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