布施祐仁『経済的徴兵制』(集英社新書) | ブロッギン・エッセイ~自由への散策~

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アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド,ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば,水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬編『証言 水俣病』)


 私が一つ大きな勘違いをしていたのは,経済的徴兵制は近い将来に行われるだろうと予測していた点である。そうではなくて,それはすでに進行している事態なのだ。そう認識を改めなくてはいけないと思った。掲題の書で明らかにされているように,経済的メリットを餌(えさ)にして貧しい若者を自衛隊に志願させる経済的徴兵制は,今に始まったことではない。1954年の自衛隊発足以来,自衛隊の「リクルート」というのは,大半が経済的徴兵制といっても言い過ぎではないと思った。自衛隊に応募してくる人たちというのは,その多くが経済的な理由から志願してきており,高い国防意識とか愛国心とかいう理由は少ない。それを踏まえて自衛隊・防衛省側も貧困家庭・貧困地域をターゲットに広報・募集活動を行い,給与とか安定性,福利厚生など待遇面の良さをアピールして勧誘する。繁華街などでポン引きまがいの勧誘をやって入隊に結びつけるケースも少なくないという。先の東日本大震災で自衛隊の災害救助が注目された後でも自衛隊への応募は増えず,またイラク派遣や集団的自衛権行使容認の閣議決定の後では退職者が増えるとともに,志願者も軒並み減ったという。やはり自衛隊員を確保するには,経済的な好条件を提示して誘導する経済的徴兵制しかないということなのである。

 学校では頻繁に説明会を実施し,自衛隊員との交流も図り,また最近では多くの企業が新入社員の研修に自衛隊の入隊体験プログラムを活用しているという。退職自衛官の再就職でも学校や企業との「密接な関係」が築かれている。さらに空恐ろしいのは,教育課程にも自衛隊が関わろうとしていることである。すなわち,防衛省は文科省など関係機関に対して,自衛隊の理解を促進するためと称して,学校での「安全保障教育(国を守る教育)」を働きかけることを今後の方針として掲げているのである。現在でもすでに「総合的な学習の時間」を利用して,防災教育や職場体験などの形で自衛隊が学校教育の中に入り込んでいるが,それをさらに拡充して,「安全保障教育の必修化」を図ろうという計画なのである。安倍政権や自民党の教育観・国防強化路線からして,近い将来政府としても「安全保障教育の必修化」が検討されることは十分考えられる。


 本書を読んで,将来の少子化や安保法制による志願者激減が予測される厳しい募集環境に備えて,このように政・財・軍をあげて,かなり強権的に自衛隊員の確保に取り組んでいるのがよくわかった。最近話題になった,「苦学生求む!」と書かれた自衛官募集パンフレットや奨学金延滞者の自衛隊インターシップ構想などは,経済的徴兵制の強化を示す典型的な事例であろう。


 さて,経済的徴兵制がこのようにすでに広く,深く進行しているという現状認識に立って,今回の安保法制の成立を考えてみよう。集団的自衛権の行使容認は,私たちにとって何を意味するのか。その本質が見えてくるような気がする。――

 日本が平和主義あるいは専守防衛に徹している間は,自衛隊は一つの職業として,経済的な貧困に苦しむ若者を救う一つの受け皿であり得た。それはあくまで,専守防衛に徹し,海外では決して武器を使わないという前提があってのことである。しかし,安保法制によって自衛隊の海外での軍事行動が拡大し,自衛隊員が命を落とす危険性が高まった今,もう自衛隊の経済的徴兵制は若者の貧困対策とか雇用対策などと言っている場合ではなくなった。なぜなら,自衛隊に入隊する貧しい人々の命が,お国のため,国益・国策のために犠牲にされる可能性が飛躍的に高まったからだ。

 生活が苦しい人たちの命が軽く見られ,使い捨てにされていく。これが,集団的自衛権行使の意味するところなのである。このように経済的徴兵制という視点から集団的自衛権の問題を見ると,その本質がはっきりと浮き上がってくる。そして,こうした政策の根底に,前々回の記事で書いた安倍政権の国家先導主義,すなわち個人より国家を,国民一人一人の人権より国策・国益を優先する思想が貫かれていることは言うまでもない。


 「経済的徴兵制」の何が問題か。答えははっきりしている。国土防衛ではなく,富める者たちの利益のために行われる海外での戦争で,貧しき者たちの命が「消費」される。それは不正義以外の何物でもない。
 使い捨てにされてよい人間など,この世界に存在しない。まして,これから本格的な少子高齢化を迎える日本には,貴重な若年労働力を使い捨てにする余裕などこれっぽっちもないはずである。

 (本書p.251~p.252)



 いわゆる国民皆兵制としての徴兵制は,今のところ憲法等の制約から実現が困難であるとしても,志願制の形をとる経済的徴兵制は今,着々と整備強化され,学校・職場・地域など社会のあらゆる場面に根を張り,深く浸透しつつある。その経済的徴兵制が,集団的自衛権の行使容認によって,大きくその意味合いを変えたのである。

 「国民の命や生活を守る」などという安倍の虚言を信じる者は今や誰もいないと思うが,集団的自衛権行使の狙いは,軍事力を後ろ盾とした海外での国益追求であり,グローバル市場での日本企業(主として外資系や多国籍企業)の自由な経済活動を確保することである。ということは,つまりグローバル企業や軍需企業など一部の富める者たちの利益のために,経済的理由で自衛隊(軍隊)に志願する貧困層の命が差し出されるわけである。集団的自衛権の行使容認は,経済的徴兵制にそのような意味づけを付け加える。

 そして,そういう貧困層が現代の戦争を支え,また戦争が貧困を作り出してもいく。そういう循環構造が,集団的自衛権の行使と経済的徴兵制によって支えられ,再生産される。

 戦争したい側,より正確に言うと戦争で儲けたい者たちにとっては,法人税を下げ,消費税を上げ,社会保障を削減して,経済格差と貧困を底なし沼のように拡大してことがメリットとなる。なぜなら貧しい者たちが次々に軍隊に入って戦場に送られ,兵器を大量に消費してくれるからだ。少子化や自衛隊の海外活動の影響によって自衛隊員が減少していけば,自衛隊員(兵士)を確保するために,ますます格差を広げ貧困を生み出す政策(新自由主義)がとられていくに違いない。そういう点から見ると,今の非正規雇用の増加は,経済的徴兵制と決して無関係なものではないだろう。むしろ一体としてとらえる必要がある。労働市場の流動化によって非正規が増え,格差と貧困が社会に蔓延すればするほど,経済的徴兵制は機能し,貧しい者たちがその罠にかかって戦場送りにされる。


 国家が国民を「資源」として「消費」する,その最たるものが戦争だ。そして,国家対国家の総力戦ではなく,ゲリラなどを相手にする非対称戦争が主となった「現代の戦争」では,アメリカがそうであるように,戦地に送られ犠牲となるのは「一部の〈貧困な〉国民」なのである。
 (本書p.242)



 本書に書かれてあることは,かなり深刻である。これから就職を控える若い人や,子育て中の親御さんには是非,本書を読んでもらいたいと思った。現在,自衛隊をめぐって何が進行しているのかを知ってほしいし,将来,若い人たちが次々と徴兵されて戦場に送られていく,そういう世の中にしたくないからです...。


経済的徴兵制 (集英社新書)/集英社

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