道浦母都子『女歌の百年』(岩波新書) | ブロッギン・エッセイ~自由への散策~

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アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド,ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば,水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬編『証言 水俣病』)


 標記の道浦母都子さんについては,その代表作である『無援の抒情』という歌集が最近復刊したということをブロ友さんに教えてもらいました。早速,それを手に入れようと思ったのですが,ちょっと値段が高くて手が出ず,代わりに標記の本を買って読んだ次第です。『無援の抒情』は高いというのもありますが,まだ私には重い,というか,まだ十分に受け止められないような気がしたからです。いずれ時機が来たら,読みたいと思っています。

 本書『女歌の百年』は,タイトルからも推察できるように,ご本人の歌集ではありません。この百年の間,すなわち本書は2002年に刊行されていますから,ちょうど20世紀の間に,この世に出た代表的な女性の短歌を振り返り,やさしく紹介・解説してくれたものです。ですので,それほど身構えることなく読むことができました。和歌の歴史とか技法など専門的な知識のない私のような短歌初心者にも十分理解できる内容でした。それは,本書が女性の内面を伝えることに重点を置いていたからかもしれません。その意味では,本書は,短歌を通して20世紀の女性の精神史を描いたものと言えます。歴史というと,どうしても表舞台に出てくる人物や事件などを中心に見てしまいがちで,それは往々にして男性視線によるものです。そういう歴史の,内側から漏れ出てくる声,あるいは底辺で支えてきた人々の内面を,本書は掬い上げ伝えているように思えました。大袈裟に言えば,20世紀の歴史の真実を知る一つの重要な手がかりにもなるのではないか,とも思いました。人口のおよそ半分をなす女性が何を考え,何を求めていたのかを知ることが重要であることは言うまでもないでしょう。しかし,なかなか歴史の表面には出てこないので,分からないままでいました。それが,短歌を通じて,少し見えたたような気がしました。


 短歌は,それ自体は歴史の項目とはなりえません。けれど,さまざまの事件や出来事を抱えながら移り動いている時代の中を,一人の個として生きたさまざまの人々の喜びや悲しみを,鏡のように映すことの可能な器ともいえます。
 (中略)
 型式があるからむつかしいと考えられがちですが,実際は型式があるからこそ,普段,なかなか言えないことや語りにくいことを,型式の助けによって語ることが可能なのです。それゆえ,長く長く日本人の,ことに女性に愛される文芸として今に至っているのだといえます。

 (本書p.14~p.15)


 20世紀が始まった1901年は,与謝野晶子の『みだれ髪』が刊行された年にあたります。本書は,そこから百年の間に登場した女性歌人の名歌,秀歌を取り上げ,紹介していきますが,その結果,たどり着いた結論は,「彼女(晶子)を超える女性歌人はまだ出現していない」(本書p.214~p.215)というものでした。20世紀の女性史は,晶子から晶子への,実り豊かな円環運動を描いていた,と言えるでしょうか。それほど,晶子は女性歌人にとって,「遠い遥かな目標」,大きな壁として聳え立っているのでしょう。

 晶子が社会評論などを始めた1910年代に,次のような言葉を書き記していたのには驚かされます。これは,終生変わらず持ち続けた晶子の人生観,人間観であり,歴史観であったでしょう。先ほど述べた男性中心史観に対する疑問・異論を,フェミニズム運動が持て囃される半世紀以上も前からすでに晶子は持っていたわけですね。


 「婦人がなくて何処に人生が成り立ちましょう。どうして男子が存在されましょう。」 (本書p.208)


 こういう強い女性というイメージを,晶子に対して私たちは持っていると思いますが,それからするとちょっと意外な面が表れている晶子の歌があって,印象に残りました。この歌からは,すでに社会的地位も名誉も得た晶子の,心の底から絞り出すような声を聞く気がします。歌人・評論家・教育者であるとともに,妻であり母であった晶子の真実の声,表には現れてこない晶子の人生が映し出されているように思いました。「明きみち」ばかりでなく,「くらき流星のみち」もあるという人生観に思わず共鳴してしまったのです。晶子でさえも,若い時期を過ぎて中年の域に入ると,そういう境地になったのですね。

 御空より半はつづく明きみち半はくらき流星のみち
  (本書p.204)


 ところで,本書で筆者が,短歌を川の流れに喩えているのが,とても深く印象に残りました。そして,歌人とは,その川の中に投げ込まれた小石のような存在なのだ,と。


 そのときそのときの時代を深く呼吸し,身をもって時代を生きた人々が,歌の中に新しい何かを吹き込み,新鮮な息吹きを加えながら,えんえんと伝え続けられてきた。短歌とは,そうした川の流れであり,その中に投げこまれた小石のように,作者自身は姿を見せなくとも,歌という一筋の流れの中に多くの人々の思いや新しい試みを巻き込みながら今に至っている,古来からの貴重な財産の一つだと言っていいでしょう。
 (本書p.9~p.10)



 本書に収められている歌はもちろん女性の歌ばかりですが,晶子の歌以外にも共鳴した歌がたくさんありました。時代は隔たり,置かれた状況・立場は違っていても,また女性と男性という性別の違いはあれども,短歌にすることで,短歌ゆえに,迫ってくるものがあるのですよね。そういう歌に出会わせてくれた道浦さんにも感謝しないといけませんな。

 印象に残った歌を,下にいくつか掲げておきます。


 夫も子もいない山川登美子の孤独がすごく分かるような気がする挽歌です。

 わが柩まもる人なく行く野辺のさびしさ見えつ霞たなびく(本書p.52)


 二・二六事件を,事件の内側から,一人の人間の内面の声として歌った斎藤史の歌には,どきりとさせられました。「暴力のかくうつくしき世」という表現には賛否両論あると思いますが,男性的な事件を女性の側から切り取って見せた秀歌だと思います。事件の表面的な因果関係は分かったつもりでいても,実際その事件に関わっていた人々が一体何を考えていたのか。特に女性が何を思っていたのかを明らかにしないことには,事件の真実の解明ということにはならないでしょう。その意味で斎藤史という歌人は時代の貴重な語り部ともいえますね。

 暴力のかくうつくしき世に住みてひねもすうたふ子守うた(本書p.138)


 相聞歌を多く残したことで知られる河野愛子ですが,その歌の底には,自らの闘病生活,そして忘れがたい記憶としての戦争が,長く沈殿し続けていることを知って,胸が刺される思いがします。

 臥すといふ文字かぞえきれずあるものかむかしの歌を編みてこもれば

 遠ぞきし一人をおもふ静夜や海にひつぎを沈むるごとし

 憎しみを戦争のほかのことと思ふ生きよともろく生み落されぬ

  (本書p.158)


 本書では,20人以上の女性歌人が取り上げられていますが,その中にはご本人,道浦さんも含まれていて,戦後世代を取り上げた第11章で『無援の抒情』の歌がいくつか紹介されていました。

 ガス弾の匂い残れる黒髪を荒い梳かして君に逢いにゆく

 人知りてなお深まりし寂しさにわが鋭角の乳房抱きぬ
   (本書p.186)


 道浦さんの学生時代は,学生運動の嵐が吹き荒れた時代で,ちょうどベトナム戦争が激化した頃にあたります。反戦と平和にについて学生の誰もが考えなくてはならない,そんな差し迫った時代に出た『無援の抒情』は,愛と革命を歌った歌集と世間には受け止められたようです(本書p.186)。冒頭で私は,本歌集について「主題が重くて受け止められないのではないか」という不安を述べましたが,しかし今の時代は,当時と同じ空気を持っているのではないかとも思います。学生・若者らが,アメリカの戦争に引き摺り込まれるのではないかという危機感から安保法制に激しく抗議している今の状況は,道浦さんの時代に通じるものがあるでしょう。であれば,今こそ『無援の抒情』かもしれません。その意味では,私なんかよりも今の若い人たちに『無援の抒情』を読んで欲しいなとも思います。


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