柿崎明二『検証 安倍イズム――胎動する新国家主義』(岩波新書) | ブロッギン・エッセイ~自由への散策~

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アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド,ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば,水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬編『証言 水俣病』)


 安倍首相が打ち出したアベノミクス「新・三本の矢」(強い経済・子育て支援・社会保障)のうち、ここで問題にしたいのは子育て支援で、特にその中の看板政策として人口1億人を維持するために希望出生率1.8という数字を政府が出してきた点である。というのは、この点に安倍政権の本性が鮮明に浮かび上がっていると私は思うからである。

 50年後に1億人程度の人口を維持するというように、政府が人口目標を掲げて政策を進めるのは、掲題の書物によれば、太平洋戦争が開戦した1941年の近衛内閣以来だという(本書p.52)。当時はもちろん戦争遂行に必要な人材確保という目的があり、そういう軍国主義の象徴として「産めよ殖やせよ」の人口政策が批判されるわけだが、より本質的な点は、国家が家庭の出産数を国家目標に掲げ、その達成のためには個人の自由の制限や人権侵害もやむを得ないとする国家主義的な政策態度である。近衛内閣当時は、「平均五児」という出産数を掲げ、ほかにも婚姻年齢の早期化や多子家庭の優遇など、女性個人の選択の自由を制限する施策を盛り込んでいた。今回の「新・三本の矢」でも、ついにはっきりと出生率1.8という具体的な数字が盛り込まれた。この数値目標は、必ずや女性個人の判断や選択に影響を与えていくに違いない。この出生率というのは女性一人が生涯に産むべき子どもの数と受け取られがちであり、そうすると1.8という数字は、女性は少なくとも「二人産め」というメッセージに変換される。女性はひたすら出産と子育てだけに励めという、女性差別とも受け取れるメッセージである。この1.8という数字にこそ安倍政権の本質が表れているのであり、すなわち国家主義や全体主義の兆しが見て取れる。

 国家と個人という観点から、出産や子育てをめぐる女性個人の自由・人権を侵害しないように、70年以上政府は人口政策や出生数・出生率の数値設定をしてこなかったのである。安倍政権は、ついにその一線を踏み越えたわけである。一方、安倍政権の国家主義的・排外主義的性格から見ると、最近のテロ対策強化と絡めて、人口対策として移民は受け入れない方針なのであろう。

 もう一つ、私が問題だと思うのは、このような女性の自由や権利を蔑ろにする強権的な政策に対して、識者・言論人から然したる強い異論・反対意見が出てこないという点である。このまずい状況は、国家が個人の生活や精神に介入してくることに国民が気持ち悪さを感じなくなってしまっていることの反映であるかもしれない。

 人の生死に関わる部分に国家が関与してくることに人々が無神経になることこそ、ファシズムの温床であろう。民主的な選挙で選ばれた結果でもある安倍内閣が持つ特性は、同時に私たちがもともと、ある程度内包しているものでもある。安倍政権の政策をよく吟味検証し批判することで、私たち自身が陥っている惑溺に気づき、それを乗り越えていくことこそが今必要だと思う。ファシズム全体主義の萌芽は、いつも国民の中にあるのだ。


 ところで、先日の茨城県教育委員による「障害児は産まれてくる前に処分せよ」という趣旨の発言は、この出生率の数値目標設定と、根っこのところでつながっているように思う。あの発言は、障害を持っているという理由で、権力は自由に人殺しをしてもいいという認識から来るものである。いうまでもなくナチスの優生思想である。この権力によるいわば無差別的な殺処分の容認は、権力による生殖の奨励、産児強制と裏表の関係をなしている。政治権力が人の生死に関する領域に関わり始め、さらにそこに権力・強制を行使しようとしているのである。すなわちセックスや出生前の胎児の段階、あるいは尊厳死など人の死に方や延命治療など、国家が足を踏み入れてはいけない領域にまで国家が踏み込んできたということである。

 ここまで国家の権力が踏み込んでくる根底には、国家が悪いことをするはずがないという国家の善意、国家性善説というお花畑の幻想がある。国家の否定的な側面を見ず、肯定的な面だけに目を向けていれば、個人は完全に国家の管理操作の対象となり、人権がいくら憲法で保障されていても、いつでも国家の必要(緊急事態条項!)に応じて自由に制限できることになる(憲法<閣議決定)。国家の善意を信じて疑わず、国家の関わる領域を無限に拡張していけば、個人の生存よりも国家の存立が優先され、結果、一人一人の生死が軽んじられ、国家のための死が尊ばれ、国家に必要がないと判断されれば家畜みたく殺処分されることになる。個人は国家の中で窒息して、もはや個人でなくなる。個人の抹殺――安倍政権とはそういう性格のものである。

 人口減少にはいろんな原因が複雑に絡み合っていて、国家による人口政策で解決するような単純な問題ではないだろう。政治がすべきことは、根本的には子育てをしやすい環境、社会をつくっていくことしかないと思う。一体、今その方向に向かっているだろうか。放射能にまみれた国土で女性は子供を産み育てたいと思うだろうか。将来は徴兵制も懸念され、ひいては戦場送りされるかもしれない国で子育てをしたいと思うか。消費税だけ高くなって、医療や福祉が削減されていく社会で希望が持てるのか。近い将来日本の食卓に出回るであろうアメリカのGM食品を子どもに食べさせたいと思うか。沖縄でも子どもの数が減っていると聞くが、危険な基地を削減・撤去し、美しい海や自然を残していくことこそが将来の人口維持・増加につながる施策なのではないだろうか。・・・

 さてさて、掲題の本だが、上に書いた人口政策に典型的に見られる安倍政権の性格を、安倍の国会答弁や政府の諮問会議議事録、政府の報告書、著書などをもとにして読み解いたもので、興味深く読んだ。すなわち本書は、異次元緩和や賃上げ要請などの経済政策から教育改革、人口政策、女性の登用、歴史認識、憲法改正、安保法制に至るまで、安倍政権の政策には共通して国家が先導するという構造(国家先導主義)が横たわっていることを明らかしている。筆者は第一次&第二次安倍政権における国会審議や政府会議に関する膨大な記録をジャーナリストらしく事細かに渉猟・整理して、読者の前に提示してくれており、私たちとしても安倍内閣の功罪(功はほとんどないのだが)を総括する上でも大変参考になる。

 先ほども指摘したように、安倍の国家先導主義の根底には、国家の善意という強い思い込み、つまり国家は悪いことをするはずがなく、国民を守り福祉を向上させるために広範な領域に関わっていくべきだ、という国家性善説的な思考態度がある。だが、「国民のため」として国家の広範な介入・干渉が当然視されるようになってくると、国民は国家の取り組みに協力し従うべきだ、という反転が生じる危険性が出てくる。というか、安倍政権の長期化で、もうその傾向が出ているだろう。秘密保護法にしても安保法制にしてもマイナンバー制にしても、すべて国民の安全を守るためというのが大義名分であるが、実際は国民ではなくて国家を守るためのものである。ナチスももともと「国家社会主義」的であったのではなくて、「国民社会主義ドイツ労働者党」として国民に寄り添うことを標榜していた政党だったのである。私たちが肝に銘じなければいけないのは、国家は万能ではないこと、限界があるということであり、常に監視を怠ってはならないということであろう。すなわち「国民のため」から「国家自身のため」へと国家の反転が起こらないよう十分に注意しなければならない。そのためにも現憲法は必要不可欠であり、立憲主義は堅持していかなくてはならないのである。

 そのほか、本書で指摘されていた論点で重要だと思ったのは、安倍は自らの立ち位置を「開かれた保守主義」とほざいているようだが、安倍イズムは本来の伝統的な保守主義とは一線を画しているという点である。そして、国家像や社会像に関して安倍が持つ情緒的な側面(「瑞穂の国の資本主義」???)も、安倍政治の統一的な理解を困難なものにしている。国民の中でも安倍政権の評価や位置づけが分かれているのは頷けるところである。安倍政治に関して統一的な像を描くのは土台無理な話なのかもしれない。その不鮮明なあり方が、国民を惑わし、また支持を高めている要因ではないかとも思う。例えば経済政策に関して言うと、アベノミクスには換骨奪胎されたたケインズ主義と拡張解釈されたマネタリズムとが同居していて、経済学者の評価も大きく食い違っている。とにかく本書で数多く引用されている安倍の証言から読者各自が検証していくべきであろう。私は先にも少し書いたように、安倍がどこまで意識しているかどうかは別として、政治体制としてはファシズムの前身、プレファシズムだと思う。すなわちそれは国民の中のファシズム、下からのファシズムを促し助長する体制である。


 安倍の国家先導的な政治手法は、結果的に櫻田が言うところの「社会革新」に近い。保守と対峙しているとまでは言わないが、少なくとも伝統的な保守主義とは一線を画していると考えざるを得ない。安倍が敬愛する祖父、岸が国家社会主義の影響を強く受け、統制経済、計画経済を理想としていたことが反映しているだろう。
 ・・・アベノミクスについて経済学者の野口悠紀雄は近著『戦後経済史』の中で「国家介入を進めようとする姿勢は、政治イデオロギーの観点からすれば、保守主義のそれではなく、社会主義のそれです」と位置付けている。また、経済学者で滋賀大学学長の佐和隆光は『日本経済の憂鬱』の中で「国家資本主義体制の再構築をめざす成長戦略」と呼んでいる。
 (中略)
 情緒的な国家像や社会像と理性重視の社会革新的な手法が共存するのが安倍である。それが「保守か否か」という論点のみならず、安倍政治が統一的な像を結びにくい要因であろう。

 (前掲書p.195~p.197)


検証 安倍イズム――胎動する新国家主義 (岩波新書)/岩波書店

発売日2015/10/20
¥864 Amazon.co.jp

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〔別記〕2015.11.22

(画像はDJ RYOWさんからお借りしました)

面白き
こともなき世に
おもしろく
すみなすものは
心なりけり


 HIPHOPは卒業したつもりなのですが、今日だけは特別に復活です。TOKONA-X、11年目の命日。
 上はTOKONA-Xの墓に刻まれた句です。同じく早世した高杉晋作辞世の句。
 昨日~今日は名古屋ではTOKONA-Xがかかりまくってましたね。まさに彼は名古屋の「誇」。なんで格好いいかと言えば、地元に対する愛が溢れているから。「名古屋がmy hood、俺のすべてだ!」と言える、そんな生き方に憧れるわけです。似たような環境で育った私は、地元を愛するどころか、地元や家族に対する反発や憎しみしかなかったですね。だから20年以上、地元を離れて関東で暮らし、5年前に訳あって出戻ってきたわけですが格好悪いね。「誇」どころか「埃」まみれで窒息状態ですよ。
 ブログを読んでいても、沖縄や北海道の人たちなど自分が生まれ育った地元ふるさとに対する深い愛情を知ると、本当に羨ましく思います。そして家族への愛・・・。下は、そういうものに憧れていた私を救ってくれるようなラップソングでした。HIPHOPでふるさとや家族のことを歌うなんて思ってもいませんでしたからね。

TOKONA-X / Where's my hood at? feat.MACCHO


そこで出会ったHIPHOP!
ちゅうか今、胸張って呼べるHomies
こんなことは言いたねぇが
そいつらは家族より家族思わす
familyいうか
今でもそりゃ孤独だ
嫁や娘もおるがなんかな
ここまでこれたっつのはなんかな?
産んでくれた親に感謝しなかんな?

やっぱオレの地元はここだ
名古屋がmy hood yeahオレの全てだ!