9条という光 | ブロッギン・エッセイ~自由への散策~

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アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド,ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば,水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬編『証言 水俣病』)


 昨日は非常に懐疑的というか悲観的な記事を書いてしまったのだが、よく考えてみれば、日本には、まだわずかながら、風前の灯火とはいえ希望が残っていたのだった。憲法9条である。これから書くことは私のかなり自由勝手な解釈で、賛同する人はほとんどいないと思うのだが、9条というのは、イスラームと親和性が高いのではないかと、最近では考えている。前にも書いたようにイスラームの理想は、国境や国民国家を超えたグローバルな平和的アナーキズムであり、それはもう少し具体的に言うと、カリフ制のもとでイスラーム法によるラフな統治が行われている世界で一つの「イスラームの家」である(昨日の記事参照♪)。

 一方、9条というのは、パリ不戦条約やユネスコ憲章など世界的な平和への動きの中で産み落とされたものである。そのことは、いくら強調してもしすぎることはないと思う。憲法前文で国際協調や国際平和主義が謳われていることは言うまでもない。9条がそうしたグローバルなバックグランドをもって生まれてきたことの意味を大切にしたいと思うわけである。9条の理想は一国平和主義ではない。というより、それは一国だけで達成できるものではない。その無国籍性が9条の本質だと思う。反対に領域国家の枠組みで考えているから、井上達夫さんのような優秀な法哲学の輩から9条削除論とか徴兵制加憲論とかが、いかにも学問的な根拠を持っているかのように出てくるのだろう。世界史的な視野が欠けているのだよね。こんな方向に進んでいけば、イスラームとはますます敵対するだけだろう。

 ここで思い出すのが、宮沢賢治が残した「世界全体が幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という有名な言葉である。「幸福」を「平和」に、「個人」を「一国」に置き換えてみれば、9条の世界観になるのではないだろうか。もともと9条は、そういうグローバリゼーションの思想や志向性を持っていたのであり、その点でイスラームの世界観と有意義に交錯すると思う。今のテロと空爆の戦争スパイラル状態を打開する鍵は、9条が領域国家の壁を破ってグローバリゼーションを発揮することではないか。今こそ9条が生きる時代だと思うのである。だから9条を持つ日本は、この危機において限りなく重要な役割を果たせると思うのだが、その世界史的な意義を持つ9条を台無しにしてしまった安倍政権の罪は万死に値する。直ちに国際社会と日本の市民に謝罪して、退陣すべきだ。そして、まともな思考と感覚を持った指導者のもとで、9条を世界の平和に生かす方向で積極的に使っていってほしいと思うのである。


(注)ちなみに私は、「9条にノーベル平和賞を」というよりは、9条を守り世界に広める活動をしている「9条の会」がノーベル平和賞に値すると思っている。