イエスは人間を愛しすぎたのか | ブロッギン・エッセイ~自由への散策~

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アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド,ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば,水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬編『証言 水俣病』)


 昨日、NHKテレビ「クローズアップ現代」でパリのテロ事件を特集していたのを観ていたのだが(緊急報告 パリ“同時テロ”の衝撃)、ゲストで出演していた東大の池内恵さんが番組の一番最後で非常に重要なことを指摘していた。イスラームの根本的な教義には、フランスをはじめ先進国が大切にする人間を中心とした価値観、人道主義や個人主義とは相容れない部分がある、という趣旨の発言だったと思う。すなわちフランス革命以来の近代的な価値観は、イスラームの超越神の前では全く通用しない、というか、むしろ敵対しさえするということである。より広い視点で見れば、人を愛するキリスト教精神、キリスト教文明が根本から問われているのだと思う。

 イスラームでは「神の法」がすべて、絶対である。これこそが真の「法の支配」とされる。だからいかなる偶像崇拝も禁じられ、聖人君主や民主国家といえども、神以外のあらゆる権威・権力は否定される。特に国家システムについては、独裁国家であろうと民主国家であろうと、少数か多数の人間が法律を作り統治する「人の支配」であるということでは変わりがなく、イスラームの教えにあからさまに反する領域国民国家は解体されるしかない。立憲主義で個人を大切にし、男女平等を実践し、政教分離をやる、そういう私たちの国民国家が決して普遍的でも理想的でもはないということを思い知らされる。

 誤解を恐れず分かりやすく言えば、イスラームにとってはヒトラーもキング牧師も同じなのだ。もっと身近な例でいえば、ファシストの安倍もリベラル・デモクラットの山本太郎も、国家を前提にしている限り、イスラームの教義の前では等値されてしまう。リベラル派の私たちは前者を打倒することを目標とするのだが、イスラームにとってはどちらも打倒せねばならない対象となる。私たちは今年初め、後藤さんの母親が「息子は決してイスラームの敵ではなく、味方なのだ」と必死に訴えても、それが全く相手には通じなかったことを覚えている。

 以上のことに関連して、先日ここのブログで紹介した『世界はこのままイスラーム化するのか』という本で、中田考さんがとても興味深い話を披露していた。すなわちイスラームは、世界を「イスラームの家」と「戦争の家」との二つに分けて考えている、という点である。


 「イスラームの家」は、イスラーム法によって治められている土地であり、「戦争の家」はそれ以外の地域です。
 「イスラームの家」は理念的には一つで、イスラーム教徒であれば、人種、民族、国籍を問わず、たとえ「戦争の家」の地域に住んでいても、ウンマの一員として、誰でも受け入れますし、自由に移動することができます。
 そして、この「イスラームの家」で、イスラーム法を執行し、ムスリムの安全な生活を守る役割を負わされる人間がカリフです。ですから「イスラームの家」においては、国境はないわけですね。グローバルなイスラーム世界があり、カリフがいて、イスラーム教徒はイスラーム法にだけ従う。そういう政体がカリフです。

 (島田裕巳・中田考『世界はこのままイスラーム化するのか』幻冬舎p.151~p.152)


 そこで、イスラームから見て現代はどうなっているかというと、すべての地域が「戦争の家」ということになる。イスラーム教徒は沢山いても、イスラーム法による統治が行われていなければ、そこは「イスラームの家」ではない。だから現代の世界に「イスラームの家」はどこにもないのだ。フランスの大統領が今さらながら「今フランスは戦争状態にある」と発言したようだけれども、イスラームにとっては、フランスを含めて世界全体が「戦争の家」状態にある。だから、反イスラーム的な統治を行っている為政者は打倒し、「戦争の家」は一掃されなければならない!

 このような考えから、反イスラーム的な政府をジハードによって打倒することが義務であるとする過激思想(サラフィー・ジハード主義)が出てくるのだが、すべてのイスラーム教徒がそうであるわけでは、もちろんない。中田さんのような正統的なスンニ派は、「イスラームの家」には何よりカリフ制が不可欠で、カリフ制を再興し、そこでイスラーム法を実行していくことが先決と考える。だから「イスラームの家」がない状況ではジハードは義務ではない。しかし、空爆や難民拒否、移民排斥などによってイスラーム教徒が行き場を失っていけば、思想を過激化させジハードに身を投げるイスラーム教徒がますます増えていくことが予想される。イスラームのことを理解しようとすれば、武力行使や排外主義政策が何の解決にもならないことは火を見るより明らかだ。

 一体、私たちが当たり前に普遍的と見なしてきた人権や個人を重視するリベラルな価値観と、イスラームの世界観とは共存できるんだろうか。私は今、ものすごく懐疑的になっている。とすれば、このまま世界はエンドレスに戦争状態を続けるしかないのだろうか、平和を築く唯一の道は、世界のイスラーム化によるグローバルなアナーキズムしかないんだろうか...。とにかく今、確かなことは、イスラームの無理解に基づいた国民国家による空爆の強化が、問題を解決するどころか、泥沼の戦争状態をますます世界に拡散していくということである。


 キリストの神性という考えは、ルデジュにとっては根本的な過ちであり、それが、人間中心主義や「人権」へと否応なく人々を導いたのだ。これもまた、ニーチェがもっと辛辣な用語を使ってすでに語っていたことだった。ニーチェは同様に、イスラームには受肉という有害な教義を追い払うことで世界を浄化する使命があるのだ、という考えにもしかしたら同意したのかしれない。
 ・・・イエスは人間を愛しすぎた、それが問題なのだ。人間のために十字架に掛けられるなんて、毒舌ばあさんのニーチェだったら、少なくとも「趣味が悪い」と言ったことだろう。

 (ミシェル・ウエルベック『服従』河出書房新社p.262)



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