映画『ホワイト・ゴッド 少女と犬の狂詩曲』@名演小劇場 | ブロッギン・エッセイ~自由への散策~

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アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド,ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば,水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬編『証言 水俣病』)


目醒めた野性,崩れ出す均衡。
この争いを止めるのは 少女の愛と勇気――



 ひとつ大きな執筆の仕事が片付いて,少し時間ができたので,昨日はいつもの名演小劇場さんで映画を観てきました。観たのは『ホワイト・ゴッド 少女と犬の狂詩曲(ラプソディ)』公式サイト)というハンガリー映画。個人的にはかなり良かったです。おそらくこの映画にはいろんな寓意や風刺が込められていて,その全部をちゃんと理解できていたわけではないと思いますが,なぜか最後のシーンでは涙してしまいました。いい映画というのは,理屈じゃなくて,そういうものなのでしょうね。演出やストーリーのほか映像や音楽,役者の表情とか風景などが一緒くたになって,胸に迫ってくる。そんな映画らしい映画を久々に観たという感じがしました。気づいたら,周りの客席から鼻をすすっているのが聞こえてきたので,ほかにも泣いている人がいたのだなと思いました。

 犬をメインにした映画ですが,ペットと飼い主との,いわゆる「お涙頂戴」的な感動物語ではありません注意。そう思って観ると,思いっきり裏切られます。というか,後半は凄惨なシーンも多いので,小学生ぐらいの年代が観るのはやめた方がよいかもしれませんね。


 雑種犬に重税を課すという,ある街が舞台。13歳の少女リリは,理解のない父親によって雑種の愛犬ハーゲンを捨てられてしまいます。ハーゲンは,執拗な野犬狩りを行う当局に追われ,彷徨った挙げ句に裏社会の闘犬場へと駆り出され,獰猛な野性に目覚めます。そして虐げられてきた数百匹もの犬たちを従え,人間に対して反乱を起こすのですが・・・。

 まだ公開中の映画なので,詳しい内容は書けませんが,250匹もの犬がブダペストの街を疾走するシーンはまさにスペクタクル,観る者の度肝を抜きます。しかも,CGなどのデジタル技術には頼らないで作った映画らしく,そのアナログ感ゆえでしょうか,もの凄い迫力が漲っています。ちなみにパンフレットによると,この映画に「出演」「演技」していた犬の多くは,保護施設から集められた犬たちで,撮影後,里親を募集したところ,すべての犬たちが新しい家族のもとに引き取られていったそうです。

 さて,この犬の反乱・蜂起には,人間の身勝手さに対する犬たちの復讐・逆襲という次元を超えて,病んで歪んだ人間社会への深刻な寓意・警鐘が込められているのだろうということは,何となく分かりました。もうちょっと言うと,タイトル(ホワイト・ゴッド)からも推察できますが,人種対立という政治的メタファーを大胆に取り込んだ作品と言えるかもしれません。そして,一方で孤独な少女の成長ドラマを描くことで,個と社会をハードコアな寓話の中で融合させた,とても重層的で深い作品だと思いました。

 パンフレットに載っていた監督さんのインタビューで,次のようなことが書かれていました。

 犬の視点では人間は神のようなもの。犬は神という主人に仕える,常に社会的に見捨てられている存在の象徴である,という観点にこの映画を置きたいと思いました。(中略)神は本当に白人なのか?それとも人にはそれぞれの神がいるのか?白人は支配し,植民地化することだけに長けていることを,何度も証明してきました。ホワイトとゴッドという言葉の組み合わせは多くの矛盾をはらんでおり,だからこそ強烈な魅力を感じたのです。



 この映画において犬は,社会的に虐げられた弱者の象徴だったのですね。弱者を支配し虐げる人間社会の不寛容や抑圧に対して,犬という被差別者=弱者のまなざしから異議申し立てをするというテーマは普遍的で,多くの人の共感を喚ぶと思います。最後にリリがトランペットを手にとって『ハンガリー狂詩曲』を吹くシーンは,多人種・多民族の共生,あるいは人間と動物の共生には何が大切なのかを示唆しているように思えました。相互理解というのは,同じ高さの目線で向き合わないと始まらないということでしょう。


 映画ファンの多くは,杉浦千畝とかを観に行くんでしょうが,この映画も是非観て欲しいなと思いました。なお帰りには,売り上げの一部を不遇な犬猫のために寄付するBuddyのコーヒーを買ってきましたよ音譜



少女と犬の友情、そして人類最愛の友から、身勝手な人類たちへのメッセージ

第67回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門グランプリ& パルムドッグ賞W受賞