江宮隆之『風のささやき――しづ子絶唱』 | ブロッギン・エッセイ~自由への散策~

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アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド,ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば,水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬編『証言 水俣病』)


 ある女性ブロガーさんから頂いたメッセージで,その俳句への高い志を知り,急にどうしてもこの本が読みたくなった。伝説の俳人・鈴木しづ子(1919年生誕~1952年失踪)の足跡を辿ったノンフィクション。と思って読み始めたのだが,作者の江宮さんによって,かなり小説風に再構成された作品だった。余談として取材メモや客観的な情報をはさみながらも,作者がしづ子の気持ちを代弁するかのようにして,その半生を一つの小説として描いており,また文章表現が上手く俳句や俳壇に疎い人にもわかりやすく書かれているのもあって,予想外に激しく感情移入をして読んでしまった。その人生が切なくて哀しくて,また時代に揺さぶられながらも自己を貫いた女性の生き方から勇気をもらったような気もして,年甲斐もなく涙が溢れるほど感動してしまった。小説という形をとっているので,一体どこからどこまでが事実で,またフィクションなのかよくわからなかったが,ただ一つだけ確かなことは,話の節目,節目で引用される数多くの俳句はしづ子のものだということである。その俳句の上に創られたこの「小説」は,しづ子の実像からそんなに離れたものではないだろう,というのが私の読み終わった後の印象であった。

 一般に流布しているしづ子のイメージは,大岡信が『折々のうた』第八集で書いた次のようなものであろう。


 コスモスなどやさしく咲けば死ねないよ  鈴木しづ子

 ――『指環』(昭和二七)所収。戦後まもないころ句界に出現,奔放な作風で異色中の異色と評判になった人。岐阜の米軍基地周辺のナイトクラブでダンサーをしている時,本国に妻子をもつ黒人兵と熱烈に愛し合う仲となったが,恋人は朝鮮戦争で戦死,彼女は後を追って服毒自殺した。ここに掲げたのは代表作として有名な句。下司な勘ぐりに取り囲まれながらいちずな愛を貫き通す女の意地を示す句だが,切ない哀愁,句の切れ味のよさは非凡。
(江宮隆之『風のささやき』河出書房新社p.6)



 大岡によるしづ子の句の評価は別として,ここにある事実関係ではいくつか誤謬が混じっていることは,この本で明らかである。何より確信を持って言えるのは,しづ子が自殺するような女性ではないということ。それは,「句は私の生命」として懸命に俳句を作り続け,自分の生命と生活のすべてを俳句に吹き込んだ,その生きざまを見ればわかるのではなかろうか。「娼婦俳人」「パンパン俳句」などと侮蔑され,特に消息を絶った後は一層ネガティブな「鈴木しづ子伝説」が作り上げられていったが,この本を読むと,むしろそれとは正反対のイメージ,すなわち戦前~戦後の困難な時代を俳句と共に必死に生きた日本人女性というポジティブな像が浮かび上がってくる。

 私自身,鈴木しづ子のことは数年前に知り,その俳句もこのブログで何度か引用したけれども,その生涯を一度ちゃんと辿り,その中で彼女の俳句を鑑賞してみたいと思っていた。この本を読んでみて感じたのは,しづ子の俳句を全く読めていなかったなぁということである。大胆な性を詠んだしづ子は,思想とか政治社会からは無縁のところにいたと思っていたけれども,そうではなかった。小林多喜二の獄中死,ファシズム,太平洋戦争開戦,終戦,朝鮮戦争勃発・・・戦時下そして戦後の状況がしづ子に影響を与えないはずはなかった。ここに社会性の豊かなしづ子がいる。


 学生として交わるや一つの思想

爆撃激し
 東京と生死をちかふ盛夏かな


昭和二十年八月十五日 皇軍つひに降る
 炎天の葉知慧灼けり濠に佇つ



 二句目の「東京と~」については,作者によれば,日本の勝利を願う愛国心から出た俳句ではない。むしろ,この句はしづ子の矜持を詠んだもの。東京に生まれ,東京に育ち,東京で生きてきたしづ子は,誰よりもこの東京を愛している。「日毎に焦土と化していく東京だが,自分もこの東京と運命をともにするつもりだ。」「生死を誓う対象は,決して国ではない。」(前掲書p.87)

 三句目の「炎天の~」は,新しい時代の予感と強い決意が表れた句だ。「『生死』を誓った東京が,空襲でボロボロになりながらも残った。そして自分も生き残った。」自然の葉も人間の智慧も今,すっかり灼けてしまったが,濠に佇てば新しい時代が待っているような気もする。8月15日,炎暑の下,二重橋に辿り着いたしづ子はそう感じたのであった。(前掲書p.97)


 このように人間の世界は不断に移り変わっても,四季は変わることなく訪れる。自然の営みは変わらない。


 「不易流行」が,芸術における普遍性を示したものだというのが,一般的な解釈だった。しづ子は,それを自然と人間の関係に置き換えてみた。自然は「不易」変わらないもの,人は「流行」変わっていくもの,であった。・・・しづ子は,季語の役割を今,明確に悟った気がした。俳句とは季語を詠み込むことで,その句に「不易」としての永遠性を与えられるのだ。
(前掲書p.95,p.96)



  ぬぐふ指さむく寄せくる潮のおと

 秋ぐちの樹肌むらせしよべのあめ

 炎天の駅みえてゐる草の丈

 春さむうきびしくぬぐふ玻璃の塵



 ちなみにしづ子が一番好きだった自分の句は次のものらしい。

 好きなものは玻璃薔薇雨春雷


 ところで,私が完全に読み違えていたのは次の有名な句。恋人のケリーが岐阜の基地から出撃していく朝鮮戦争のさなかに作った句である。


 夏みかん酸っぱしいまさら純潔など


 朝鮮戦争という背景も知らずに,私はここで詠まれている「純潔」とは言葉通り女性の純潔だとばかり思っていた。だが本書によれば,この句は最初は「夏みかん酸っぱしいまさら戦争なんか」だったらしい。「自分の純潔への嫌悪ではない。これは,戦争という不純物への嫌悪であった。」(前掲書p.292)


 しづ子にとっては酸っぱい夏みかんに,ケリーが出撃する戦争への皮肉と不安を込めていた。もちろん,そんなしづ子の心の中にある寓意が,誰に分かるものでもなかった。が,それでもしづ子には,この俳句は心の叫びとして,大事な一句であった。(前掲書p.294)



 初見の句も含めて,改めて本書でしづ子の俳句を一通り読んでみて感じたことは,その十七文字に籠めたものが花鳥風月であれ生活であれ心象であれ,それはしづ子の志を述べたものだったということである。しづ子が「自らの意志を記した十七文字の息遣い」に,私はこの上ない感動を覚えるのである。


 コスモスなどやさしく吹けば死ねないよ

 最初に掲げたこの代表的な句にしても,しづ子のしなやかに,力強く生きようという志が脈打っている。 


 か弱く見えるコスモスだが,風も優しく吹くかぎりは倒れはしない。そんな感想を詠んだものだった。しづ子は,そのひょろ長い一本を,自分に置き換えていた。強く生きると決めたばかりであった。それを,しづ子は「死ねないよ」という表現にまとめた。(前掲書p.265)



 明星に思ひ返せどまがふなし

 これも,自らの強い決意,覚悟を吐露したような句。自分のこれまで生きてきた道を振り返って,恋も結婚も離婚も,そしてダンサーになったことも,決して間違ってはいない。世間や俳壇が自分を娼婦だの,その俳句を「情痴俳句」だのと貶しても,自分は自分,自分の心に忠実に生きてきた。そして,これからも前を向いて生きていく。――そういう自信,情熱のようなものを感じさせる句である。闇が深くになるにしたがって輝きを増す宵の明星のように,しづ子が見える。


 「まがふなし」と胸を張り,「死ねないよ」と微笑む。しづ子の俳句はしっかりと志を詠むものになっていた。しづ子がしなやかで強い女に生まれ変わった瞬間であった。(前掲書p.265)



 あくまで本書を読んだ限りでの感想だが,しづ子が「まがふなし」と胸を張った,その生き方は,まさしく「まがふなし」というに値する生き方であったように思った。しづ子は,戦後,文学や演劇,芸術などの分野で自己を主張し始めた女性の先駈けではなかろうか。作者はしづ子の句作品を「女性が戦後,自らの生き方に目覚めた文学の第一弾である」と評している。何も女性の権利を声高に主張して政治や社会に進出することだけが女性の解放とか自立ということではないだろうと,しづ子の生き方を知って思ったのである。ましてや,女性が政治家になり閣僚になって皇国青年的な振る舞いをすることが強い女性の生き方であるわけがない。

 最後に,第二句集『指環』(昭和27年)が出版された直後に出た,石田小坡という人の評価を引用しておきたい。しづ子の全体像がよく表れていると思ったので。


 『指環』の世界にあつては,こまかい技巧の穿鑿(せんさく)などよりも,生きんがための祈りが,社会の行幾変遷とともにいかに融合しあひ,いかに抵抗してゆくひとりの人間の道程として,つよくこめられてゐるかといふことに鍵があるとおもふのである。・・・『指環』の世界こそ俳句と人生を賭けたより高次元の世界となつて展開して行くのではなからうか。(前掲書p.367)


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