9月30日,文科省は,原発から北西方向ににあたる福島県双葉町,浪江町,飯舘村の計六ヶ所の土壌から,福島第1原発事故によるとみられるプルトニウムが検出されたことを明らかにした。同原発の敷地以外で,検出されたのは初めてという。
今さら,という感が拭えない。しかも,初めて,と強調する。確かに国が発表するものとしては初めてかもしれないが,すでに本ブログでもその疑いを指摘してきたところであるし,5月25日における福島県会津若松市・大熊町役場の調査ではプルトニウムの検出が報告されている。にもかかわらず,国は調査を怠っていたのか,情報を隠蔽していたのか,わからないが,どちらにしても,あまりにも遅すぎる発表は無責任かつ犯罪的だ。大手メディアもプルトニウムの放出問題を,何故もっと国や東電に追求しないのか,僕には解せない。今回の文科省の発表についても,新聞やテレビにおける扱いは極めて小さい。中日新聞でも10月1日付朝刊では,プルトニウム238の検出にしか触れていないが,NHKニュースによれば,プルトニウム239や240も検出されている。238の半減期が88年であるのに対して,239といえば半減期が2万4000年と極めて長く,猛毒物質であることはよく知られている。中日新聞がわざと239の情報を出さなかったのではないか,とも勘繰りたくなる。
NHKの情報によれば,原発から約45kmも離れた地点で,プルトニウム239と240の濃度が合計で1平方メートル当たり2.5ベクレルあった。にもかかわらず,文科省は,今回検出されたプルトニウム(やストロンチウム)の濃度はいずれも低く,これらの放射性物質による被爆量は非常に小さいと楽観的に結論している。そして,今後は,大量に土壌などに降り積もっている放射性セシウムに着目して,被爆量の評価や除染対策を行うことが適切だとしているが,本当にそうなのか。少量(本当に少量かどうかはまだわからない)のプルトニウムは特に対策を採らなくてもよいのか。原子核物理学やプルトニウムの専門家に尋ねたい。
高木仁三郎の『プルトニウムの恐怖』にはこうある。
―――プルトニウムは,この世で最も毒性の強い物質のひとつ,とよくいわれる。…どんな評価をとっても,プルトニウムが「地獄の王の元素」の名にふさわしく,超猛毒の物質であることには,まぎれがない。…現行の許容量の妥当性には,さまざまな疑義が提出されているが,現行の許容量をとっても,一般人の肺の中にとりこむ限度は,プルトニウム239の場合,0.0016マイクロキュリー(1600ピコキュリー)とされている。これは重量にして4000万分の1グラムほどに過ぎず,もちろん目に見える量ではない。骨を決定臓器とした場合の許容量も,0.0036マイクロキュリーと小さい。このように大きな毒性が生じる最大の原因は,その放出するアルファ線である。アルファ線は,その通路に沿って電子をたたき出すが,これが放射線のもたらす生体に対する悪影響の主な原因である。このような放射線の作用を電離作用と呼んでいる。電離作用が生体結合に与える破壊・損傷効果によって,いろいろな障害がもたらされるのである。
1マイクロキュリー=3万7000ベクレル(0.0001マイクロキュリー=3.7ベクレル)であるから,今回福島で検出されたプルトニウム239の量はごく微量であるが,だからといって対策を採らなくてよいのか。甚だ疑問である。そもそも今回の調査結果がすべてではないし,人類を滅ぼす超猛毒のプルトニウムが少量であれ検出されたことは紛れもない事実であるのだから,プルトニウムおよびα線に関する徹底調査が行われるべきだ。
チェルノブイリ事故でもプルトニウムは放出されたが,日本では,かつて原爆に利用されて長崎へ投下されたのに続き,今回が二度目の「投下」となる。何故「投下」と呼ぶか。それは,今回のプルトニウム漏出が,ある意味,人為的であり,また必然的とも言えるものだったからである。
日本の原子炉は,チェルノブイリのそれとは異なる,高速中性子増殖炉という,いわゆるプルトニウム増殖炉をモデルに造られている。この管理が難しく毒性の強いプルトニウムを利用した原子炉に,何故日本はこだわり続けてきたのか。簡単に言えば,普通の原子炉から面倒なプルトニウムを取り出して燃やせるからというものである。日本とフランス以外の国々は,経済的な不採算や環境上のリスクから,この再処理路線からすでに撤退しているが,日本は資源小国であるという理由に加えて,原子力技術への自信(それが過信であったことは今回の事故で示された),官僚たちの独善的なプライドなどにより続行された。そして,今後も継続されようとしている(野田首相の国連演説を見よ!)。先日はフランスの核再処理施設でも事故があった。今や原子力テクノロジーは不完全で,欠陥のあることは明白である。
シーボーグというアメリカの化学者が1940年のプルトニウムの発見によって現代の錬金術師になれると確信したが,その黄金の夢は,巨大な「負債」に転化した(高木仁三郎『もんじゅ事故の行きつく先は?』)。とはいえ,このことは,プルトニウムに関わる原子物理学が「負債」になったことを意味するものではなく,量子力学以降の原子物理学は,おそらくは現代科学のうちで最大の成果を収めている。しかし,科学は決して無謬でも全能でもない。ましてや,それに基づくテクノロジーが完全であるはずがなく,大きなリスクを背負っている。科学が発展し,テクノロジーが高度になればなるほど,そして,それが自然状態から離れれば離れるほど,リスクは大きくなる。科学がこれだけ発展した今,それに基いた高度なテクノロジーが事故を起こさないとは断じて考えられない。科学の発展と技術の発展は決して比例関係にあるものではなく,しばしば両者は乖離していく。科学が等比級数(1,2,4,8,16,32,64…)的に発展するとすれば,技術は等差級数的(1,2,4,6,8,10,12…)にしか進歩しない。技術への過信は,その乖離をリスクとして現出する。そのリスクはますます増加していく。その極みが,原子力技術ではないか。そして,プルサーマルを含むプルトニウム・リサイクル!
かつては科学者が自己規制に向かった例もあった。アインシュタインとラッセルが,原子力を戦争目的に利用することを禁止する宣言を出したことは,あまりにも有名だが,日本でその含意が深く顧みられることがあっただろうか。アインシュタインは原子力技術の未来に対して,あくまで懐疑的であった。―――「原子力が将来,人類に恵みをもたらすとは,いまのわたしには,考えにくいのです。原子力は脅威です。」(「科学の巨人 アインシュタイン」より)
アインシュタインの不安が,チェルノブイリと福島で現実となってしまったことは,人類史にとって極めて残念な事態だが,何故そうなってしまったのか。アインシュタイン,曰く―――「政治が物理学より難しいからです。」
その政治をするのは誰だ?アインシュタインはこうも言っている―――「無限なものは二つ存在する。それは,宇宙と人間の愚かさだ。前者については断言できないが。」
では,愚かな人間が政治をやったらどうなるのかの症例。―――チェルノブイリ原発事故とソ連邦解体。そして,福島原発事故と日本の破滅。
プルトニウムの調査と対策を早急に進めないと,日本は本当に破滅する!